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妬心:瀬戸内晴美の私小説


短編小説「妬心」は、平野謙がいう瀬戸内の私小説の第三部ループの嚆矢となる作品である。この第三グループというのは、瀬戸内の最初の結婚を破綻させる原因となり、その後瀬戸内が八年間変則的な同棲生活をともにした男との関係をも破綻させた年下の男との、離別をテーマにした作品群である。この年下の男に瀬戸内は深い愛着を持っており、その男の愛を失うことは耐えがたかったようだ。この小説は、その耐えがたい彼女の心を正直に告白したものだ。なにしろ瀬戸内本人が、これは自分の実人生を描いた私小説だと認めているので、この小説を読むことで読者は、単に文学的な興味を駆られるだけではなく、瀬戸内という女性のありのままの姿を垣間見たような気になるだろう。

瀬戸内がこの小説を書いたのは四十二歳の年である。「みれん」を書いて、八年間同棲してきた男との別れを語ってから、わずか一年しかたっていないから、瀬戸内とこの年下の男との関係は、一年で終わったということになる。その時点で瀬戸内は、まだその男に執着していたので、男から別れ話を持ち出されたときにはたいそう惑乱した。その惑乱は、男への憎しみよりは、その男を奪った若い女への嫉妬として現れた。タイトルにあるとおり、この小説は、瀬戸内の嫉妬をもっぱら表白しているのである。

その嫉妬は、四十過ぎの女が、二十歳そこそこの女に対して抱くのであるから、ただでさえ嫉妬はみっともないのに、なりふりかまわぬ醜態といった観を呈する。そのことは、作者の瀬戸内自身自覚していて、嫉妬に狂う自分の醜悪さに打ちのめされているのである。その様子は、「四十過ぎた女が、見栄も外聞も忘れて取り乱し、遂には、病的に神経を痛めるほどに、嫉妬に囚われきっているという、自分の現実が、つくづく浅ましく、かえりみられてくる」と表現され、また、「牧子(瀬戸内のこと)はもう、年齢も、社会的地位も忘れ去った、ただの捨てられかけた女になっていた。哀訴したり、脅迫したり、嫉妬したり、あらゆる女の愚かさと醜さの毒素のすべてを吐き散らしていて日を消していた」というふうにも表現されている。

ここに社会的地位とあるのは、瀬戸内がこの時点で、流行作家の仲間入りしていることを意味している。「夏の終わり」以下の三角関係シリーズでは、瀬戸内は染物の仕事をしていることになっていた。私小説と言いながら、架空の要素を持ち込んだ部分であった。ところがこの「妬心」の中の女主人公は、流行作家としての姿を明かにすることで、いっそう瀬戸内の実像を忠実に語ったものだとの印象を読者に与えることになる。そんなこともありこの小説の中で描かれた瀬戸内の暗い情熱は、実に熱を帯びたものである。

老いた瀬戸内は、恋敵と自分を比べ、恋敵の欠点をあら捜しすることで、すこしでも自分をましな女として納得したいと思う。瀬戸内の目に映ったその女は次のように描写される。「手足の大きさ、骨太の頑丈な躰つき、何より、牧子の倍もありそうなその顔の大きさが、史郎の女の好みとあまりにかけちがっているのに、牧子は拍子抜けがしていた。大根脚でガニまただと口をすべらした史郎の批評を牧子は執念深く覚えていて、娘の脚に目をむけた」。そんな不細工な娘と自分を比較して、自分のましなことに満足する一方、こんな不細工な娘に心を奪われた愛人の思慮のなさに、保護者然とした優越感を覚えるのである。

その優越感は、彼女をして男を本当に憎ませない。彼女はたびたびヒステリーを爆発させて男を困らせるのだが、それは愛情のあらわれであって、憎しみからではない。その証拠に瀬戸内は、結局男を許してしまうのだ。しかもその愛人たる不細工な娘ともども。瀬戸内はその愛人を呼び出して、喫茶店で対面した後、数件はしご酒をしたあげく、娘をその家まで送りとどけるのだ。実にお人よしというべきである。

そんな具合に、この小説の中の瀬戸内は、恋に悶える女であるばかりでなく、年下の男に対して保護者然と振る舞うお人よしのおばさんといった具合なのである。瀬戸内自身がそんなおばさんであったのか、あるいは偽装して照れ隠しをしたかったのか、それは小説の文面からは明確に伝わってこない。


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