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瀬戸内晴美を読む


瀬戸内晴美は、頃日入寂した天台宗尼僧瀬戸内寂聴の在俗中の名である。寂聴尼は、この名で作家活動をしていた。その作風は、自己の煩悩を赤裸々に描写する私小説であって、それを読むことで読者は、瀬戸内晴美という作家の内面を覗いた気分になれた。彼女が私小説を書いたのは、日本文学の伝統にしたがったまでのことで、大した意味があるわけではなかったが、瀬戸内晴美個人にとっては、作家としての成功のみならず、自分の生き方を見つめるための鏡のような役割りをも果たしたのだと思う。

瀬戸内寂聴尼は恋多き女であった。正式の結婚は一度しかしていないが、その結婚は、年下の男との不倫関係によって破綻した。その年下の男は、彼女にとっては、愛欲の対象であるとともに、自分をみじめにする存在だった。彼女はこの男によって、最初の結婚を破綻させられただけではなく、その後八年間にわたって同棲生活をともにした男との関係も破綻させられた。また、この男と本格的に同棲するようになると、男の女癖の悪さに激しい嫉妬を掻き立てられた。彼女の私小説の基層低音のようになっているのは、その激しい嫉妬の感情なのだ。というのも、彼女は決して美形とはいえず、また、いい年をして年下の男をつばめとしていたので、いきおい、他の若い女にひけめと嫉妬を感じざるをえないからだ。

年下の男の女癖の悪さといったが、彼女のほうも決して潔癖というわけではなかった。彼女は、年下の男と別れたあとも、色々な男と付き合ったようだし、奇人変人として知られる井上光晴とも男女の関係をもった。彼女が俗世を離れて出家しよう決意したのは、井上との煩悩多き生活を清算したかったからだといわれる。彼女は、自分自身の尻癖の悪さを自覚しており、その癖を矯正するためにも、出家せねばならぬと思いつめていたようである。

出家後も彼女は筆をおくことはしなかった。かえって旺盛な創造力を発揮したくらいである。しかしもはや私小説は書かなかった。彼女は自分自身を書くかわりに、歴史上の人物や同時代の高名な人物をモデルにして、半評伝風の作品を多く手掛けるようになった。西行法師の生涯をモチーフにした「白道」や、谷崎潤一郎の女遍歴をテーマにした「つれなかりせばなかなかに」などがその代表的なものである。

一遍上人を引き合いに出した小説「花に問え」は、寂聴の名で書いた作品のなかで白眉といえるものだ。これは一遍を直接対象にしているわけではなく、現代に生きる女の生きる手本のように扱っているのであるが、そこに天台門徒とはいえ、一宗教者としての寂聴のこだわりのようなものを感じることができる。

瀬戸内寂聴は、晴美名義の時代も含めて、決して文豪といわれるような存在ではなかったが、二つの点で、日本文学を象徴するような作家だった。一つは日本文学の伝統である私小説の世界を極限にまで追求したことだ。男の書いた私小説は、徳田秋声がそうであるように、とかく分別臭さを感じさせるものだが、瀬戸内寂聴にはそういった分別臭さはあまりない。彼女は女としての感性とか愛欲を、飾らずに率直に描いた。その描写は非常に官能的なものである。だがポルノのようないかがわしさはない。女として感じることのできる官能の喜びがありのままに描かれているのである。

もう一つは、日本人が長い歴史の中で培ってきた民族的な感性というべきものをきめこまかく描いたことだ。それには美的なものと宗教的なものがある。美的な面での日本的な感性は、自然との一体化とか繊細さといったものに代表される。そうした傾向は、清少納言以来の日本の女性文化の伝統であり、それを寂聴は現代に受け継いだということだと思う。また、宗教的な面での日本人の感性は、仏教的なものということができるが、寂聴は自身が仏徒となって、日本人が抱懐している仏教的感性をきめ細かく表現したといえる。

ここではそんな瀬戸内寂聴の、文学的な達成について取り上げてみたい。主な対象は、瀬戸内晴美時代の私小説である。それに寂聴以後の作品をいくつか加えてみた。それゆえシリーズのタイトルを「瀬戸内晴美を読む」とした。


瀬戸内晴美の官能小説「花芯」を読む

夏の終わり:瀬戸内晴美の私小説

あふれるもの:瀬戸内晴美の私小説

みれん:瀬戸内晴美の私小説

妬心:瀬戸内晴美の私小説

地獄ばやし:瀬戸内晴美の私小説

黄金の鋲:瀬戸内晴美の私小説

墓の見える道:瀬戸内晴美の短編小説

蘭を焼く:瀬戸内晴美の短編小説

瀬戸内寂聴「花に問え」:一遍上人に思いを致す

瀬戸内寂聴「白道」

谷崎の細君譲渡事件:瀬戸内寂聴「つれなかりせばなかなかに」


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