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柳橋新誌:成島柳北の時代批判


今日成島柳北の文業を正しく評価するものはほとんどいない。その著作のうち書肆に出回っているのは「柳橋新誌」くらいである。これは岩波文庫に収められているほか、いくつかの全集ものにも入っているから、比較的手に入りやすいが、それ以外には、昭和44年に刊行された明治文学全集所収のものが最後で、図書館に行かなければ目にすることができない。

そこで柳北といえば「柳橋新誌」ということになるが、これが今日の若い読者にはとっつきにくいのである。まず文体が漢文調で書かれていて、漢文の素養に乏しい読者には、読むにも相当なエネルギーを要する。しかも硬い漢文の裏側に、徳川時代以来の諧謔が込められていて、一筋縄の表現ではない。

だが忍耐強く読む進んでいくと、これが滅茶苦茶に面白い。その面白さは、ひとつには言葉遊びの精神に、もうひとつには時代に対する批判の精神に由来していると、筆者などは考えている。

日本の近代文学は、泥臭い自然主義運動に毒されてか、まじめ腐ったものが主流を占めてきたが、徳川時代においては、そんなことはなかった。そこには俳諧とイロニーを事とした遊びの精神が横溢していた。柳北の文章はこの遊びの精神を継承しているのである。

時代に対する批判精神も、文章に独特の張りを持たせている。それが漢文のもつ生硬さと溶け合って、逆説的な効果を生み出している。とりわけ、第二編が描き出している世界は明治初年の激動の時代であり、秩序が転覆して、権力が交代しつつある時代だった。そのときに新しい権力者となった薩長の田舎侍たちを、柳北は一流の諧謔とイロニーとをもって、あざ笑っている。

柳橋新誌は初篇二篇の二部構成をとっている。永井荷風の考証によれば、初篇が書かれたのは安政六年であり、二篇は明治四年に書かれた。出版されたのは明治七年のことであり、その翌々年出版停止の処分を受けた。柳北はその際すでに書き上げていた第三篇の出版も断念せざるを得なかった。

初篇二篇ともに、柳橋の遊郭街の繁盛振りとそこに展開する人情を描いている。だが両者の間には自ずからトーンの相違がある。初篇はもっぱら遊郭街と遊妓の賛歌であるのに対し、二編のほうは遊郭を出汁に取った時代批判である。

どちらも読み物として痛快である。初篇のほうは柳北自身の遊興体験に裏付けられているらしく、その筆致には鬼気迫るものがある。柳北は遊郭に展開する人情を描きながら、その底にあるものが金権崇拝であると喝破している。

「嗚呼、人情の翻覆する、金也能く痴を転じて慧と為し、醜を化して美と成す」これが初篇を締めくくる言葉である。

二篇に展開する世界は、金権がいっそう露骨さを増した世界であり、金権の背後にある権力がむき出しの姿を見せる世界である。その権力の担い手だったものは、維新の政変を通じて新しく支配者になった薩長の田舎侍たちであった。

その田舎侍たちが、金と権威を振りかざして柳橋を謳歌して歩く。柳北はそこに苦々しさを感じた。かつては江戸の文化の精髄だった世界が、権力を振りかざす田舎ものたちによって占領され、惨めなさまを呈している。そこに柳北は時代の変遷の意味を痛感せざるを得なかった。

そこで柳北は、彼らの愚行を徹底的に笑い飛ばすことによって、権力を相対化しようとした。二篇は、すぐれて抵抗の文学なのである。これが発禁処分に付せられた理由はそこにある。

柳北の批判の矛先はまず新政府の高官たちに向けられる。

「往昔北里盛んなりと雖も、柳橋熟すと雖も、未だ名公巨卿一遊して以てその情味を嘗むる有るを聞かず。蓋し文政天保以遠、幕府禁網極めて厳にして、旗本の士と雖も遊べば即ち譴有り。天朝その弊を矯め、小過を赦し賢才を挙げ、其の大綱を正し其の大典を修め、花を擁し柳を抱く瑣末の事の如きは赦して問はず。故に四馬高蓋時有って蘇小の家を三顧す。彼の公子王孫深閨中に在り、畢生狭斜の郷に入る能はざる者、一朝放縦其の之く所に任す、野鶴の籠を出でて飛び、洪水の堤を決して進むが如し。その快知る可き也。・・・ 其れ下情に通じ人事を解する者は遊に若く莫き也。貴人役人深意を遊戯に寓し、以て呂巷の情態を察せば、即ち治を為すに於て益無しとせず。且つ泰西諸国の若き、帝王遊を庶民に同じくす。花旗連邦の如き、貴賎等を異にせず。皆是文明開化なる者、頃歳本邦日に旧弊を除き力めて政教を新にす、美事と謂はざる可けんや。然りと雖も徒に酒楼の遊び、娼妓の楽を以て文明開化の道と為す者は、余敢へてその祖を左にせざる也。」

徳川時代には、遊郭で遊ぶことは庶民のつつましい息抜きであった。柳北自身がそうしたとおり武士も遊ぶことはあったが、その遊びにはルールを重んじる節度があった。武士の中でも高位のものが遊ぶことは滅多になく、いわんや大名が遊郭に出入りすることは固く法度とされていた。ところが時代が変わり、お上が入れ替わると、政府の高官たちが大勢やってくるようになった。彼らは芸妓の遊びが文明開化の徴と考えているようだ。また新政府は、臣民の娯楽にはいたって寛大であるらしい。こう柳北はいって、皮肉を利かせている。

薩長の田舎侍たちが支配者を気取るさまを、柳北は次のように皮肉る。

「一妓絃を按じて歌って曰く、其の章(モン)は桐及び菊此れは是れ官家の章、客聴いて嘆じて曰く、広い哉、熙々乎たり、曲にして真体あり、其れ天朝の徳乎、隆(サカンナル)を周文に比して大雅の音あり、妓又歌って曰く、其の章は洛陽花(ナデシコ)、此れは是れ権郎(ゴンチャン)の章、客懌(ヨロコ)ばずして曰く、権十は俳優なり、俳優は乞食なり、卿(オマヘ)乞丐(コジキ)を以て、天子と並べ歌ふ、何等の不経、妓徐(シズ)かに答へて曰く、君歌曲の事を知らざるか、妾聞く、深有・桑中は民間淫奔の詩なり、聖人採って之を雅・頌の前に列す、君聖人を咎めずして妾を咎む、何等の不経ぞ」

皇室の菊と団十郎の紋を組み合わせた芸妓に対して、侍がとがめだてをすると、芸妓は、詩経にも庶民の卑しい歌たる国風と天子の歌たる大雅が一緒に納められ、しかも孔子は国風を先にしているではありませんかと、反論するのである。

また文明開化を鼻にかける侍たちは、次のように皮肉っている。

「一書生学校に入り頗る英語に長ず、一夕柳光亭上に飲む。妓と言ふ、半ば英語を用ふ。妓曰く、郎君独り英語を識る、奴輩解せず、是れ甚だ趣無し。願はくは妓に教ふるに英語を以てせよ。書生意甚だ得て曰く、卿才子卿才子、若し是を学べば数月必ず大家と為らん。僕英語に於いて通ぜざる所無し、知らず、卿学ぶ所何を先にせんと欲するや。妓曰ふ、同輩相呼ぶ、常の語を用ふる、風致無きに似たり、願くは郎君先ず教ふるに奴輩の名を以てせよ。書生曰く、妙々。妓阿竹を問ふ、曰く蛮蒲(バンブー)、阿梅を問ふ、曰く波林(プロム)、阿鳥を問ふ、曰く弗得(ビルド)、阿蝶を問ふ、曰く酒悖(シェーブル)、応答響くが如し。妓又美佐吉を問ふ、書生首を伏して百考得ず、又阿茶羅を問ふ、書生益々困す。汗を其の額に拭ふて曰く、今者僕辞書を携へず、近日将に英語箋一部を懐にし来りて、以て卿等百般の問に答へんとすと。」

相手の学識を尊敬する振りをして次々と珍問を浴びせかけ、ついにギャフンとさせる芸妓のしたたかさを通じて、新政府の進める文明開化の底の浅さをあざ笑っているのである。

二編には全篇にこうしたユーモアとイロニーがあふれている。それらが漢文のもつ生硬な表現と結びつくことによって、逆説的な効果も生じている。

柳北がこの文を書いたとき、自らを無用の人と称して、有用のことには身をおいていたのであるが、それでもさすがに、新しい時代を支配する異様な空気には敏感にならざるを得なかったのだろう。やがて柳北は、「朝野新聞」を舞台に、新政府批判を本格的に仕掛けるようになるだろう。


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