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天狗のカゲマ:大江健三郎「同時代ゲーム」


双子の妹に向かって、村=国家=小宇宙の神話と歴史を、手紙という形で語って来た僕が、最後の手紙で、いまや行方が知れなくなった妹に向って語るのは、自分自身が人々から「天狗のカゲマ」と呼ばれるようになった原因となる出来事についてだった。その出来事というか、体験は、僕が真にわれわれの共同体の一員となったことを自覚できるようなものだった。その体験が僕の記憶の基層にいつまでもわだかまっていたからこそ、僕は父=神主への反感から一度は、といっても数十年にわたる長い間にわたることだが、村=国家=小宇宙の神話と歴史を語ることを拒絶したにかかわらず、ついにはそれを語る決意を僕に起こさせたわけなのだった。

「天狗のカゲマ」と呼ばれる体験を僕がしたのは、五十日戦争の舞台ともなった深い森の中でだった。ぼくはその森の中に、真っ裸の躰を、妹が薄化粧用に使っていた母親の残り物の紅で真っ赤に塗りたくって、入って行ったのだった。僕にそんなことを決意させたのは、一つには父親への反感であり、もう一つには村=国家=小宇宙の創建者であり、また守護神でもある壊す人と一体化したいという希求であった。いずれにせよ、そのような異様な姿でいるところを、六日後に村人から発見され、「天狗のカゲマ」と呼ばれるようになったのであった。

僕は何故そんなことを、つまり壊す人と一体化したいというようなことを希求するようになったのか。それには深い事情がある。

われわれの共同体を「村=国家=小宇宙」と名付けたのは、外部から疎開していた双子の天体学者だった。その双子が大日本帝国の権力に拉致されて消えてしまった。その双子はまだ三十代前半の若さだったが、僕はかれらをアポ爺、ペリ爺と呼んでいた。そのアポ爺、ペリ爺が大日本帝国の権力に拉致されるにあたっては、父=神主も一枚からんでいた。アポ爺、ペリ爺を陥れようとした直接の当事者は僕の通っていた国民学校の校長だったのだが、父=神主はその校長と談合してかれらを大日本帝国の権力に売り渡したのだ。かれらが権力によって弾圧された理由は、天皇陛下の外に現人神の存在を主張し、その現人神に守護された村=国家=小宇宙が、大日本帝国から独立した自由な土地だと公言したことにあった。もっともそれは、権力側からの一方的な決めつけで、アポ爺、ペリ爺に本気でそれを主張する気持ちがあったのかどうか、小説の語り手である僕には、はっきりとはわからない。いずれにしても、われわれの共同体に村=国家=小宇宙という名を与えてくれた人が、大日本帝国の権力によってひどい目に合わされることが、僕には我慢ならなかった。そして父神主がそれに手を貸したことが、僕には許せなかったのである。

そういう事情を背景にして、僕は五十日戦争の舞台にもなった深い森の中に入って行ったのである。僕がそんな深い森のなかに、ひとりで、しかも真っ裸の躰に紅を塗りたくって入って行ったのは、そうすることで壊す人と一体化できるのではないかと考えたからだ。少年のことだから、考えたというより思ったというほうがふさわしいかもしれない。いづれにしても少年は、壊す人と一体化することを希求しながら深い森の中に入っていった。その森の入り口には、壊す人を始めとした創建期の人々によって殺された大猿の亡霊が待ち構えていたが、僕は恐怖することなく森の奥へと進んでいった。

森の中を進んでゆく僕の頭の芯に、「歩け、歩け、歩き続けて、バラバラになった壊す人の肉と骨すべての上を歩き通せ、という声が不断に響いていた」。僕は森の中をくまなく歩くことで、壊す人と一体化できるというような確信を持ったのである。そんな僕の前に次々とヴィジョンが現れた。そのヴィジョンはガラス玉式の空間の内部に現われたのだ。そのガラス玉のなかのヴィジョンは、最初は犬曳き屋の自転車を曳く犬だったり、尻の割れ目から目玉がのぞいている大男シリメだったり、進駐軍の配布した電池がもとで焼身自殺した子供と、その母親だったりしたが、ついには父=神主が僕に語ってきかせた村=国家=小宇宙の神話と歴史に出て来る人物たちが勢揃いしたのだった。

これらのヴィジョンを見ることを通じて僕は、「ここにいま現にあるものこそ、自分が道化て口に出した、ほとんど無限に近い空間×時間のユニットの、一望のもとにある眺めだ」と感じ、また、「そのようにして森のなかにすべてが共存している、村=国家=小宇宙の神話と歴史こそは、それら巨人化した壊す人をあらわしているのだ」と確信する。

こう感じることで僕は、自分が壊す人と一体化し、村=国家=小宇宙の真の一員になれたと確信するのだ。その確信を支えるのは、僕の前に現われた無数のヴィジョンであるが、それらのヴィジョンは、村=国家=小宇宙の世界に生きた過去の人々の姿を映し出していたばかりではない。未来の姿を映したヴィジョンもあった。それらのヴィジョンをすべてあわせれば、村=国家=小宇宙の全体像はもとより、世界全体、この宇宙全体のイメージが得られるのではないか。

僕が見たそれらのヴィジョンは、ライプニッツのモナドを想起させる。ライプニッツのモナドは、人ごとにあり、それら相互には何らのつながりもないが、個々のモナドがその中に宇宙を内在させており、それらすべてを合わせたものが宇宙の全体に匹敵するとライプニッツは考えたわけだが、この小説の語り手である僕も、少年の身にして、世界はモナドのような独立したヴィジョンからなっており、それらすべてを合わせたものが宇宙の全体を構成する。だから、僕のまわりに現われたヴィジョンをよくよく見れば、僕は宇宙全体を見ていることになる。そのように、宇宙全体を見る立場に立ちうるものは、普通の感覚では神でしかありえない。とうことは、僕はそれと自覚しないままに、神に昇華したわけである。僕にとって壊す人は村=国家=共同体の創建者であり、守護神であった。それ故、壊す人は村=国家=小宇宙にとっての神に匹敵する。その壊す人と一体化したのであるから、僕は、少なくとも村=国家=小宇宙にとっての神の如き存在になりえたわけなのだ。

そのヴィジョンのひとつに、語り手である僕の双子の妹のものも含まれていた。小説は、そのヴィジョンについて、次のような感情的な言葉で表現しながら、ページを閉じるのである。

「そのなかには、妹よ、娘に成長したきみが入っていた。きみは燃えるように美しい恥毛で下腹部をかざっているほかは、全裸の躰じゅうをバターの色に輝かせて、その傍らには、再生し回復した犬ほどの大きさのものがつきそっていた」

なお、この部分は、時代設定がかなり混乱している。大日本帝国とか、憲兵隊とか、敗戦以前にかかわる言葉が使われる一方、進駐軍といった敗戦後にかかわる言葉も使われている。時間感覚が融通無碍なのである。あたかもライプニッツのモナドが、過去・現在・未来を同じレベルで混在させているように。




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