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同時代ゲーム:大江健三郎を読む


「個人的な体験」から「ピンチランナー調書」に至る一連の作品をつうじて、大江健三郎は自分自身の個人的な体験に拘り続けて来た。そのこだわりを一応棚上げして、全く新しい創造に取り掛かったのが「同時代ゲーム」である。この小説は、それまでの大江の殻を突き破って、新鮮さと奇抜さに満ち満ちた、読者をわくわくさせるような、壮大な物語になっている。そうした壮大さは、大江以前の日本の文学にはなかったものだ。大江はこの小説によって、前代未聞の稀有の物語作者として、日本の文学空間を震撼させたといえる。

もっとも、この小説が発表された時には、そう大きな反響は起らなかったようだ。大江のそれまでの代表作は「万延元年のフットボール」として受けたられていたのだが、この小説が、「万延元年のフットボール」を超えるものだとは認識されなかった。むしろ文学の常識を超えた不真面目な小説と受け取られた。こんな不真面目な小説を平気で書く大江は傲慢な男だというような誹謗もあったほどだ。

この小説が不真面目だと受け取られたのは、テーマの荒唐無稽さも無論働いているが、語り方にもある。この小説の語り方は、性的な放縦さとか政治的な過激さに満ちていて、平均的な日本人の眉を顰めさせるような仕掛けに満ちていたのである。大江はそれ以前にも、セックスとか暴力とか死といった、まがまがしいことがらを好んで書く傾向があったが、この小説のなかではそうした傾向が遺憾なく発揮されている。そうしてその傾向が反権力を中核理念とする政治的な傾向と結びつき、ここに一大叙事詩ともみまがうべき豊穣な物語を展開させるにいたったのである。

この小説のテーマは権力である。権力は国家によってもっとも露骨に体現されるが、その国家を相手に戦った特異な人々の集団がこの小説を彩っている。その集団は、既存の権力から自分たちを解放して、全くユニークな共同体、それをこの小説の語り手は「村=国家=小宇宙」と呼んでいるが、その共同体の建設から、建設後の自由な時代を経て、再び国家つまり大日本帝国にからめとられるにいたる経過を語るという体裁をとっている。それを小説の語り手は、「われわれの共同体の神話と歴史」と呼んでいる。この小説はその神話と歴史とを、小説の語り手が自分の妹に宛てた手紙を通じて語るのである。

この村=国家=小宇宙は、例によって大江の故郷である伊予の山中に設定されている。その山中に、徳川時代の中頃に、藩の権力から逃れて来た一団の人々が、壊す人と呼ばれている偉人に率いられて植民してくるのだ。その植民の際には壮大な物語があった。壊す人という名前は、その物語から来ているものだ。壊す人は、人々を率いて川を遡及し、行きどまりの大岩塊あるいは黒く固い土の塊と呼ばれる巨大な障壁を、火薬で爆破したからそう名付けられたのである。この壊す人は、その後死んだとも、あるいは生き続けて巨大な姿に成長したとも言われている。それのみならず、何度も生き返っては共同体の人々を指導したり、あるいは共同体の人々の夢の中に現われたりして、常にこの共同体に影響を及ぼし続けた。そしていまは、小説の作者の妹によって新たな命を吹き込まれ、もはや犬ほどの大きさに成長している。この小説は、その犬ほどのものに成長した壊す人を膝に置いた妹に向って、手紙の形で語られるのだ。

小説の語り手が、この共同体の神話と歴史を書くについては、自分の父親たる神主からの薫陶と教育が影響を及ぼしていたのだが、彼に直接それをうながしたのは、自分の双子の妹だった。双子の妹は兄である語り手に挨拶の手紙を送ったのだったが、というのも語り手はその時メキシコにいて、メキシコから送金してもらったことへの礼状を兄に向けて出したというわけなのだが、その令状に添えて、自分の恥毛のカラー・スライドを送って来た。兄である語り手はこの恥毛のカラー・スライドに励まされるようにして、妹に向って、手紙のかたちで、自分たちの共同体の神話と歴史を語ろうと決意するのだ。

双子の妹が、兄に向って自分の恥毛のカラー・スライドを送ったのは、「君の肉体への官能的な希求がある」という兄の性的嗜好を十分にわきまえていたからだ。彼女は、なによりも自分の性的な魅力が兄を励まして、大きな仕事をさせるのだということをわかっていたのである。

その仕事、つまり「われわれの共同体の神話と歴史を書く」という仕事を、語り手は六通の妹への手紙を通じて語るわけなのである。その手紙の中では、壊す人が先頭になってわれわれの共同体を四国の山の中に創建し、そこにあらゆる権力から解放された自由な世界が作られる。その自由な世界は語り手によって「村=国家=小宇宙」と呼ばれるわけだが、その村=国家=小宇宙の百数十年にわたる自立の歴史と、村=国家=共同体がついに外部世界によって侵略され、挙句の果ては大日本帝国によって絡め取られる歴史が語られる。最終的に絡め取られたとはいえ、村=国家=小宇宙の人々は無気力に降参したわけではなく、勇敢に抵抗し、戦い続けたのである。その抵抗の一つのあり方に、一つの戸籍を二人で共有するというのがあった。それによって、村=国家=小宇宙の人口の半分は、大日本帝国からの搾取から自由になれたわけである。しかしその自由も、敗戦直前になされた大日本帝国からの攻撃によって粉砕されてしまった。戸籍のからくりに気づいた大日本帝国が、一個中隊を派遣して、村=国家=小宇宙を弾圧した挙句に、共同体の人口の半分を虐殺してしまったのだ。

こんなわけでこの小説の中で語られるわれわれの共同体の神話と歴史とは、共同体による権力からの自立と、その自立を守るための戦いの歴史であるわけだ。そういう意味では、この小説は一種のユートピア物語とも言え、また、反権力と自由を謳歌する物語とも言える。

こうした反権力の物語を、大江は壮大な規模で描き上げた。ところで、反権力の象徴たる村=国家=小宇宙のイメージを、大江はどこから持ってきたのか。そのことを大江は明示的には書いていないが、文脈からすると、これは封建時代に権力を逃れて逃散した人々が作ったかもしれない、別天地を大江なりにイメージしたのだと思われる。封建時代には、大規模な逃散が繰り返された。そうした逃散は、多くの場合悲惨な降伏に終わったものだが、なかには成功したものもあったに違いない。そうした成功した逃散が、日本のどこかに別天地を見出し、そこで国家権力から解放された自由な生き方をしていたとして不思議ではない。実際、この小説で描かれたほど大規模ではなくとも、日本の片隅で自分たちだけの小宇宙を作って暮らしていた人たちはいたのである。そうした人たちは、周囲の人から差別され、抑圧されることが多かった。大江はそうした周囲からの差別が、当の差別される人々には、権力から離れたところに自分を置くと言う事態の、いわば陰画のような形になっていると考えたのだろう。

その陰画的な自立を大江は次のように表現している。「外部世界が、われわれの土地の人間を、生きながら冥府におもむいた者とみなし、その忌わしい場所でつづけられている、忌わしい者らの生活を知りながら、かれらを大きい甕棺に集団で葬った死者たちとみなして敬遠したのだとしたら、この冥府に繁殖した死者たちの子らの、孤立した平和は自然なものとなろう」

この文章は、差別されることでかえって自立できたことを皮肉めいた言い方で表現しているが、差別そのものについても、次のようにストレートに書いている。「かれらにとって先祖代々の禁忌の対象、冥府である甕のなかのものを食い、そこでかもされた酒を飲むことには、もうつぐないえぬ汚穢にふれる思いがあったはずでもあろう」。これは、自分自身が権力に逆らって一揆を興した農民たちが、村=国家=小宇宙の領域に踏み入った時に感じたことを語った部分だ。

こうしてみると、「同時代ゲーム」というこの小説には、反差別小説としての意義も認められそうである。



村=国家=小宇宙:大江健三郎「同時代ゲーム」
同胞たち:大江健三郎「同時代ゲーム」
双子の兄妹:大江健三郎「同時代ゲーム」
天狗のカゲマ:大江健三郎「同時代ゲーム」



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