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ピンチランナー調書:大江健三郎を読む


「『個人的な体験』から『ピンチランナー調書』まで」と題する小文のなかで大江健三郎は、「ピンチランナー調書」と彼が題した長編小説の、かれにとっての位置づけについて触れている。それを簡単に言うと、自分が個人的に体験したことがら、それはかれの生涯に巨大な影響を与えたことがらであったが、そのことがら、すなわち障害を以て生まれた息子へのこだわりを「個人的な体験」以降表現してきたのであるが、その営みに一つのくぎりをつけたいというものであった。その思いを大江は、「『個人的な体験』ではじめたことはすべて、『ピンチランナー調書』で終えたと僕は考えている」と書いている。

つまりこの小説は、大江の文業にとっての一つの区切りをなしたわけだ。その区切りは大江自身の生き方の区切りでもあったようだ。そんなわけで大江は、この小説に並々ならぬ勢力を注いでいるように伝わってくる。もっともその意気込みは、舞台設定の荒唐無稽さが働いて、かなり現実感に乏しいものにはなっている。大江といえば、処女作以来現実社会に面と向かったリアルな作品を書き続けてきており、それは「万延元年のフットボール」で一つの頂点に達していたわけだが、この小説は、そうしたリアルさとかなりかけ離れたものに仕上がっている。シュールリアルとまではいかないが、要するに虚構された作品、あるいは想像力の産物といった色彩が強い。この小説を読んだものは、「ドン・キホーテ」に代表されるような、虚構文学との親縁性を感じ取らないではいないだろう。

この虚構性を大江はかなり自覚的に追及している。それには、自分に対して寄せられた大方の批評への反発があったようだ。大江の文学については、リアルな状況設定とか、彼自身の個人的な体験をテーマにしているといったことを理由に、ある種の私小説だとする見方が強くなされていた。それに対して大江は、自分の小説は私小説ではなく、かえってその対極にあるものだと主張したかったようだ。その主張に可視的な根拠を与えるために、この小説ではあえてアンチリアルな状況設定と、自由奔放な想像力の羽ばたきとみられる要素を盛り込んだのであろう。

実際この小説には、いくつかのアンチリアルな設定がなされている。38歳の父親と8歳の息子の関係が逆転し、父親が18歳の若者に転換し、息子が38歳の分別盛りの年齢に転換する。しかも彼らは、父親についてはさらに年齢をさかのぼり、息子についてはさらに年を重ね続けるといった、まさしくアンチリアルな設定がなされている。年齢が進むのではなくてさかのぼるという設定は芥川も思いついていて、日本文学としては珍しいことではないが、大江のこの小説の場合には年齢がさかのぼるだけでなく、進行もするわけだ。なぜそんな込み入った設定を大江がしたのか、それは小説の文面からは伝わってこない。小説はものごとの説明が目的ではなく、出来事を物語として語ることが目的であるから、大江はそれにしたがって、淡々と出来事を語るだけである。その出来事が現実にはありえないアンチリアルなものであっても、出来事には変わりはないのだ。

この大江自身とその息子の分身と思われる親子のほかに、この小説には何人かの人物が登場する。もっとも重要なのは、この小説の事実上の語り手である幻の書き手である。この書き手もやはり大江の分身としての位置づけらしいが、その男が主人公たる「おれ」に代わって主人公の体験を物語るのだ。よくあるやり方としては、ある人物が第三の人物の書いた遺書を本人に代わって発表するとか、その第三者の言動を第三者的な視点から語るというようなものがあるが、この小説は、幻の書き手は主人公の「おれ」とほぼ一体化していると言って過言ではない。というのも彼は、他人の言葉をそのままに紹介するというような立場ではなく、その他人になりきって、彼自身ではうまく言葉にできないものを、彼に代わって言葉にする役目を引き受けているからだ。だからこの小説のなかで語られる言葉は、どこまでが「おれ」の言葉であり、どこからが幻の書き手であるか、判然とはしない。なぜそんなややこしい細工を大江はしたのか。そんなことをせずとも、たとえば、「おれ」が語る言葉をそのまま紹介するという方法も十分に成り立ちえるのだ。にもかかわらず、こういう手の込んだ方法をとったわけは、物語にアンチリアルな色彩を施し、そこに想像力の働く余地を確保しようとの意図から出たのだろうか。

小説のメイン・プロットは、核兵器による人類の危機というものである。その点では前作「洪水はわが魂に及び」と同じである。「洪水は」では、核兵器による人類の滅亡を展望して、自分と息子だけは生き延びようと願う男が、核シェルターに隠遁する話だった。ところが核兵器そのものはあまり話題にならず、アナキストたちの反権力の行動が主なテーマになる。その点では、核を扱った小説としては中途半端だったわけだが、この小説では、その核の問題が正面に出て来る。この小説は、核兵器の脅威から人類を救出するというさしせまった問題意識に貫かれているのである。

そのわりに危機感が強く伝わってこないのは、核をめぐる登場人物たちの戦いぶりなり行動ぶりなりが、戯画的に描かれているからだ。なにしろ核廃絶の戦いの先頭にたっているはずの「おれ」たち親子が、年齢が逆転した倒錯的な関係にあるのだし、父親はともかく、38歳になった息子が、どれほど自分の使命を理解しているかも不明である。この息子は38歳になってもほとんど口をきかないわけだし、ときには若い女性とセックスを楽しむこともあるようだけれど、自分の言動に責任ある大人としては描かれてはいない。だからいまや身も心も18歳になってしまった父親が、自分より20歳も年上になった息子を気づかわねばならないのだ。

危機感が脆弱なもう一つの理由は、核兵器を弄んでいるのが国家ではなく、私人だということだ。この私人には、いわゆる革命家たちのグループもあるし、政界のフィクサーらしい老人もいる。革命家たちは、二つの党派にわかれて対立しているが、どちらも国家から核兵器の独占の特権を取り上げようといている点は共通している。かれらは自分たちが核兵器を持つことによって、国家権力を牽制し、その独占的な力を相対化しようというのだ。一方、フィクサーのほうがどのような意図で核兵器を入手しようとしているのかはよくわからない。自分のフィクサーとしての資源を拡充したいのか、それとも核兵器を通じて政治権力を奪取しようともくろんでいるのか。この小説の最大の眼目は、「おれ」たちがこのフィクサーに立ち向かうところにあるから、そのフィクサーの意図なり人物像なりがある程度明確でないと、小説としての座りは悪いものとなる。実際、この小説は、核危機を描いたものとしては、いまひとつ座りがいいとは言えないのだ。

題名にあるピンチランナーについては、その言葉のいきさつを「おれ」が語る場面が出て来る。「おれ」は若い時分いつも「ピンチランナー」に甘んじていたのだったが、「転換」した後はむしろ積極的な意味でピンチランナーをつとめる気持ちになった。「おれ」はゲームのピンチランナーとして、チームを勝利に導かねばならないが、そのゲームとは核戦争であり、自分の属するチームとは人類全体である。その人類全体の為に核戦争の危機を回避する、それがピンチランナーとしての自分に課された役割である。そんなニュアンスがこの言葉からは伝わってくるのである。



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