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大江健三郎の警察嫌い:洪水はわが魂に及び


大江健三郎には反権力的な志向が強く見られるが、それは「洪水はわが魂に及び」では、警察への反感という形で現われる。大江が警察を正面から取り上げて手厳しく批判するのはこの作品が初めてだ。警察こそは権力の権化みたいなものなので、その描き方を通じて、大江の反権力的思考の内実がよくわかるのではないか。

この小説のなかの警察は、暴力主義的なアナーキストたちを叩き潰す強大な権力として描かれる一方、権威に弱い滑稽な連中としても描かれる。彼らは小説の最初の部分でまず現われるが、そのさいに大木勇魚が有力政治家とつながっていることを知ると妙に卑屈になる。そのうえで彼らは同僚刑事の失態ぶりを恥ずかしげもなく勇魚に語るのだ。それは中年の刑事が、小娘にからかわれたあげく、不良少年たちと面白からぬはめに陥った次第を語るものだったが、それらの語り方には、警察の滑稽さへの大江の嘲笑のようなものがうかがえる。

警察は冒頭の場面でちょっと顔を出した後、当分姿を現さない。彼らが再び姿を現すのは、小説の最後になって、「自由航海団」を包囲する場面でだ。その包囲の場面は、例の浅間山荘事件を彷彿させるように書かれている。アジトを囲んだ膨大な数の機動隊員が、スピーカーを通じて投降を呼びかけたり、その合間に催涙ガスを打ち込んだり、場合によってはビルの解体工事に使うような巨大な鉄の玉でアジトの建物の壁を叩き壊したりだ。そうした光景は日本中の茶の間にテレビ映像として伝えられたので、大江のこの小説を読んだ者は、自分の記憶の中のテレビの映像を思い起こしたに違いない。

このように書くことで大江は何を意図したのか。文章を虚心に読む限り、警察は物理的な力を以て不逞のやからをひねりつぶそうと焦っており、それに少人数で立ち向かう自由航海団の少年たちは、高遠な理想こそ持たないまでも、自分たちの自由を守るためには命を惜しまないというヒロイズムを感じさせる。そんなところからこれは、アナーキストによる露骨な警察嫌いの感情を吐露したものではないかとの印象を与える。

小説のこの部分はあたかも戦場を描いているように映る。公の正義の権力が私的な不正の暴力を取り締まるというよりは、対等の力と力がぶつかり合うという感じであり、そういう点では戦争のイメージを喚起させる。実際警察側は戦車を思わせるような重装備の車を動員するし、催涙弾に交えて実弾まで打ち込んで来る。それに対して少年たちは命をおしまず勇敢に戦う。とくに多摩吉という少年は射撃の名手で機動隊の幹部らしい人物を射止める。それはその男が、自分らの仲間に対して、獣に対するような非礼なことを行ったことへの罰というふうに書かれている。

また、無線に詳しい少年は、壊れたアンテナを修理しようとして、アジトの屋上に上った所を狙撃されて死ぬが、そこにも自分の意志に忠実な英雄気質を感じ取ることができる。この戦闘シーンにおける少年たち一人一人の行動はどれもみな英雄的なのである。

それゆえ読者は、この場面から、正義は自由航海団にあり、警察はそれをつぶそうとする暴力の担い手という構図を見てとるのではないか。もしそうだとしたらこの小説は、かなりハードな反権力小説ということになる。

この場面で大木勇魚の妻が登場するのだが、彼女が発する言葉は少年たちに向けられており、しかも人質になっていると思われている自分の夫や子供の安否を心配するような調子ではなく、一般的な正義の立場から彼らの行為をいさめる言葉であった。彼女の言葉はこんな調子なのだ。「あなたがたは、いったいなにをもとめているの? 仲間をリンチし、自殺に追い込み、警官を殺害し、知恵遅れの子を人質にして立てこもって、なにができると思っているのですか? あなたがたは人間ではありません!・・・建物のなかの皆さん、建物のなかの皆さん、武器をすてて、すぐに出てきてください」

これはまさに警察とまったく違わない言葉である。その点では彼女は、人質の妻であり母であるよりも、権力の一員として振る舞ったわけだ。彼女をそのように振る舞わせた大江は、そのことで勇魚とその妻との関係の破綻を即物的な形で示したわけである。

この小説では、もうひとつの権力である自衛隊の隊員が出て来るが、自衛隊その者は出てこない。しかもその自衛隊員もいまひとつ精彩にかけるので、多くの自衛隊員を代表しているようには伝わってこない。かれが思慮に欠けているのはかれ個人の属性で、自衛隊の精神を代表しているわけではない。そんなわけだから、かれはあっさりと舞台から消えて、ほとんどなんの痕跡もとどめないのである。彼の恋人役だったはずの伊奈子までが、その死を速やかに忘れてしまうほどだ。大江にしてみれば、同時代の日本の権力は警察だけに代表させておけばよく、自衛隊まで引っ張り出すには及ばないと考えたのだろうか。



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