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美しいアナベル・リイ:大江健三郎を読む


「美しいアナベル・リイ」というタイトルは、エドガー・ポーの詩「アナベル・リイ」からとったものだ。大江は当初この小説に「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」というタイトルをつけたのだったが、後に文庫化する際に「美しいアナベル・リイ」に替えた。「臈たし」云々は、日夏耿之介の訳語だが、いかにも時代がかっていて、今の日本には場違いと思ったのだろう。

この小説は、一人称の形式に戻して書かれている。その一人称の語り手は、「けんさんろー」とか「Kenzaburo」とかいって言及されており、また大江の小説からの引用も、ずばりそのままの題名でなされているから、大江はこの語り手に自分自身を重ねて欲しいと思ったのだろう。しかもこれを書いている時点での自分自身が前景に出て来る。つまり七十歳の大江がこの小説の語り手になっているというわけだ。その七十歳の大江が、三十年前の出来事を回想するというのが、この小説の枠組みになっている。

三十年前の出来事というのは、大江を含めた親しい間柄の四人が、あるテーマをもとにした映画の制作にかかわるものだった。大江を除いた三人とは、まず大江の大学時代の友人である木守、その女友だちのサクラさんと、その親しい女友だちである柳夫人だ。このうちのサクラさんが、アナベル・リイに見立てられているのである。原作のアナベル・リイは、死んでしまったところをポーによって、その失われた美しさを歌われるわけだが、この小説でアナベル・リイに擬せられているサクラさんは、死ぬことはない。彼女はひどいショックのあまり重い精神病をわずらったりするのだが、七十歳まで生きて、三十年前に果たせなかったことを、成就したいと思うのだ。ちなみにこのサクラさんを含めて四人の親しい人々はみな同い年なのである。

三十年前に果たせなかった映画の制作とは、クライストの小説「ミヒャエル・コールハース」を映画化しようというものだった。原作をそのままに映画化するのではなく、それに日本の伝説を絡めるという構想だった。この映画化のプロジェクトは、日本だけではなくいくつかの国でも並行して進んでいて、それらを総称して「M計画」と呼ばれていた。各国とも、それぞれに独自な伝説を絡めて映画化するというのが、この計画のコンセプトになっていた。日本でその責任者となったのが木守で、かれはサクラさんを主役にして、日本に相応しい「ミヒャエル・コールハース」の映画化を成功させたい。ついては大江にその脚本を書いてもらいたい。そういって大江に協力を求めてきたのである。大江はそれを引き受ける。脚本が、大江の創造した世界に立脚するであろうことは当然の成り行きだ。大江の創造した世界とは、四国の山の中を舞台にした、庶民と権力との抗争であったわけだが、映画の原作となる「ミヒャエル・コールハース」も、庶民と権力との戦いがテーマになっており、両者には共通するところがあるのだ。

この計画が実現していたら、サクラさんは、かつて大江の母が村の演劇で演じたという一揆の指導者メイスケの母親を演じるはずだった。メイスケとその母親は、大江の小説になじみのキャラクターだ。かつて大江は、メイスケ母を演じる自分の母親のそばで、メイスケらしい子どもの役柄を演じたことがある。その自分の役を誰が演じるかは別として、メイスケ母の役を演じることになったサクラさんは、大いに乗り気になっていた。ところがある事情で、映画化は中断された。理由は、映画のスタッフが引き起こしたスキャンダルだった。しかしそれ以上に、サクラさんが精神的なパニックに陥り、映画どころの話ではなくなってしまったのだ。サクラさんをパニックに陥れたのは木守だった。なぜそんなことを木守はしたのか。

サクラさんは、幼い頃に両親を失って孤児になったところを、進駐軍のGIに庇護されて育った。そのサクラさんの十歳頃の様子を、このGIが映画の映像に残していた。大江自身その映像をかつて見たことがあった。その映像には、白い寛衣を着た少女が地面に横たわり、裸でむき出しになっている彼女の性器やら尻の割れ目が見えた。ところがサクラさんが別途見せられていた映像には、ただ白い寛衣を着て地面に横たわる彼女の様子が映されているだけで、そこには裸の部分は映っていなかった。要するに、彼女を写した映像には二つのバージョンがあったわけだ。どういうわけか木守は、サクラさんがまだ見ていない裸のバージョンをサクラさんに見せるのである。そのバージョンでは、サクラさんの裸体が映っているばかりか、庇護者であるGIが、彼女の幼い性器にいたずらをした形跡迄映っていた。それを見たサクラさんは、ショックのあまり精神的なパニックに陥ってしまうのである。

彼女をそんな目にあわせた木守を、大江は陋劣だといって非難し、柳夫人も大江に同調するのだが、木守は病んだサクラさんを伴なってアメリカへ行ってしまい、三十年もの間音信不通だった。その木守が三十年後に突然大江の前に現われ、三十年前に頓挫した計画に、改めて取り組みたいというのである。しかもサクラさんが、その映画に強い意欲を持っているというのだ。今度はM計画にこだわる必要はない。大江の創造した世界の物語を、そのままに演じたいというのだ。こうして三十年ぶりに、かつての計画が実現されていくというのが、この小説のメーンプロットとなっている。そんなわけだからこの小説は、失われた時間を取り戻す物語といってもよい。三十年前といえば、大江たちには四十歳の中年にあたるわけだが、七十歳になった老年にとっては、あたかも青春時代の延長のように見えるのだろう。だからこの小説は、失われた青春を取り戻す物語と言ってもよい。



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