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スーパーマーケットの天皇:大江健三郎「万延元年のフットボール」


大江健三郎は、「芽むしり仔撃ち」の中で朝鮮人を登場させ、一定の重要な役割を果たさせていたが、この「万延元年のフットボール」では、朝鮮人問題を前景に押し出して、日本人と朝鮮人とのかかわりをかなり突っ込んで描いている。前作での朝鮮人は、日本人によって一方的に抑圧される絶対的に弱い存在だったものが、ここでは日本人とほぼ対等に接するばかりか、場合によっては日本人を支配できるしたたかな存在として描かれている。日本の近代史の中で、朝鮮人がそのようにポジティヴな立場に立ったことはなかったと思われるので、こうした設定は大江が意識的に持ち込んだのだと思う。そうまでして大江が書きたかったことはなにか。

「芽むしり仔撃ち」の中の朝鮮人たちも、四国の山の中にあるらしい日本人部落の傍らに小さな集落をつくって暮らしていた。彼らは自立しておらず、日本人に依存していて、部落に疫病が発生したことを恐れた日本人たちが、この部落に疎開してきた少年たちを置き去りにして退去した際には、日本人たちと行動をともにして退去したのだった。それほどこれらの朝鮮人たちは、自主性に欠けた弱い存在として描かれていたわけだが、それは当時の日本における朝鮮人の境遇を前提にすれば、ごく当たり前の構図と言ってよかったのではないか。

ところが、「万延元年のフットボール」における朝鮮人たちは、日本人に対して一定の自主性を持った存在として描かれている。彼らは森林作業の労働力として強制的に徴発されてこの部落にやってきたということになっているが、おそらくは彼らだけで独立したコミュニティを営み、日本人にはそれほど依存してはいなかったように描かれている。それゆえ日本が敗戦した後はとくに、日本人コミュニティとほぼ対等に渡り合い、朝鮮人成員が日本人によって殺された時には、その報復をして、なお自分たちのコミュニティを守り通したということにもつながるのである。

そんな朝鮮人への、日本人社会の向き合い方が、この小説の大きなテーマの一つになっている。

小説には、この朝鮮人コミュニティから、日本人たちによって「スーパーマーケットの天皇」と呼ばれる人物が登場し、その人物が日本人コミュニティに対して支配的な力を及ぼすさまを描く。小説の後半は、主人公の弟を先頭にした日本人たちが、このスーパーマーケットの天皇と彼のまわりにいる朝鮮人たちに戦いを仕掛けるところを描いているのである。その描写からは、スーパーマーケットの天皇こそがこの部落にとってのむきだしの権力そのものを意味しており、したがって彼を倒すことこそ世直しにつながる。この部落はかつて、万延元年に大規模な百姓一揆を興した経験を持っているが、その時の経験を再現することで、自分たちの生きる誇りを取り戻そうとする。その現代版一揆の先頭に立つのが主人公の弟鷹四なのだ。

主人公の僕自身は、このスーパーマーケットの天皇にたいした意趣は抱いていない。それゆえスーパーマーケットの天皇から、自分が相続した四国の家の蔵屋敷を売ってくれと持ち掛けられた時には、あっさりと承諾するのである。しかし、弟の鷹四はそう淡白ではいられない。かれは、この売買話に乗った形で兄と共に四国の家に行き、そこで部落の若者たちを手なずけてスーパーマーケットの天皇に対する一揆に邁進するのだ。なぜ鷹四がそれにこだわったのか。小説からはいくつかの動機が見えてきはする。彼らの次兄であるS四が朝鮮人たちによって虐殺されたこともあるし、鷹四が敬愛してやまない祖先の一人、曽祖父の弟という人物に自分を同一化させ、その祖先が指導した百姓一揆を自分の手で再現してみたいという妄想を抱いたこともある。もっとも本質的な理由は、鷹四自身が心に深い傷を抱えており、その傷に責め立てられるようにして自虐的な行動に走ったということだろう。

いずれにしても、この小説の後半を占める鷹四と部落の若者たちによる疑似一揆は、日本人コミュニティによる朝鮮人コミュニティへの攻撃という色彩が強い。いわば人種間紛争のようなものだ。しかし、この紛争は、指導者の鷹四自身が途中で脱落したこともあるが、それ以上に彼らの標的としたスーパーマーケットの天皇が、これをまともにうけとらず、軽く受け流したことで、大袈裟な事態には至らなかった。鷹四が自殺したあと、一揆の動きは急速にしぼんでしまうのだ。そのことからは、歴史はたびたび繰り返すが、二度目には茶番になるという有名な言葉が思い出される。

ともあれ、この小説は、民衆の一揆を主なテーマにしていながら、彼らが標的としているスーパーマーケットの天皇とその周りの朝鮮人コミュニティは、それ自体としては抑圧的な存在として描かれていない。その為に日本人たちの行動は聊か滑稽に映る。彼らはスーパーマーケットの天皇を直接襲撃するわけでもないし、また日本国の権力に対して歯向かうわけでもない。彼らがやることといえば精々、スーパーマーケットの天皇が不在の折に、スーパーマーケットの商品を集団でくすねるくらいのことであり、また祭に乗じて朝鮮人を侮蔑するパフォーマンスにうち興じるくらいが関の山だ。第一彼らは、スーパーマーケットの天皇を直視できないでいる。朝鮮人の男に天皇というあだ名をつけたのは、朝鮮人である彼に自分たちが支配されている現実を認めたくないからだ。

そんな具合でこの小説に出て来る四国の山の中の部落の日本人たちはみな奇妙にいじけた生き物のように描かれている。

そんな日本人たちを朝鮮人であるスーパーマーケットの天皇は冷笑しながら見る。彼は雪解けとともに部落に戻ってきたが、スーパーマーケットが略奪されたことについて一切文句を言わなかった。そんな態度に部落の連中は安堵した。かれらは略奪の責任を追及されるかと恐れていたのだ。しかし、略奪の責任は追及されなかったが、スーパーマーケットの商品は以前より二三割も値上げされた。ほかに買い物ができる店がないので、部落の連中はその価格を受け入れざるをえなかった。スーパーマーケットの天皇は、自分の蒙った損害をスマートに埋め合わせすることを知っているのだ。

また、彼は僕が住んでいた蔵屋敷を、利用せずに解体してしまった。それに対して僕は何も言えなかった。「白(スーパーマーケットの天皇)にはもともと蔵屋敷の大梁をふくむ垂木構造を運び出して都市に再建する意志などはなく、ただ谷間の民衆の前でそれを破壊する楽しみのためにのみ、蔵屋敷を買ったのではないかという疑念が見舞うほどだ」

このようにこの小説は、スマートな朝鮮人と対比して、日本人がどんなに愚かに見えるか、そのあたりをシニカルな目で見ているところがある。





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