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ドン・キホーテとしての古義人:大江健三郎「憂い顔の童子」


前稿で、大江の小説「憂い顔の童子」は「ドン・キホーテ」のパロディだといい、大江の分身たる古義人こそドン・キホーテその人だと書いたが、ここではこの小説と「ドン・キホーテ」との関係をもう少し見てみたいと思う。とにかくこの小説は、「わしは自分が何者であるか、よく存じておる、とドン・キホーテが答えた」という、「ドン・キホーテ」の中の文章をエピグラフにしているのであるし、単行本の装丁には、ロバを抱きしめるサンチョ・パンサを描いた、ドレの有名な版画をあしらっているほど、「ドン・キホーテ」にこだわっている。だからそのこだわりに応えて、もうすこし「ドン・キホーテ」に執着してみようというのである。

古義人がドン・キホーテ役を演じていることは、よくわかるように書かれている。かれはたびたび不可解な行動をしては、自分自身を手ひどく痛めつけるのだが、それがドン・キホーテの奇妙な行動と符丁をあわせていることは、よく見て取れる。古義人の良き理解者たるローズさんも、そんな古義人をドン・キホーテに譬えている。彼女は、前にも触れたように、そもそも「ドン・キホーテ」の研究者だったので、古義人とドン・キホーテとのつながりがよく理解できるのだ。その彼女は、古義人に向かって、たとえばこんなふうに語り掛けるのだ。「それは古義人が本当にドン・キホーテのような人物だということです。ロシナンテがドン・キホーテを乗せたまま驚いて駆け出すシーンは、幾つもありますね? たいていドン・キホーテの望んでのことではありませんが、それでもロシナンテの背中で素っ飛んでいくドン・キホーテにはいつも魅力があります。樹木の間を、かまわず駆けて行く古義人も立派でしたよ」

古義人がドン・キホーテだとしたら、その重要な相棒サンチョ・パンサは誰が演じているのか。この小説では、古義人にとって最も重要な人物は、ほかならぬローズさんなので、彼女がサンチョ・パンサを演じればもっともうまくはまると思うのだが、彼女はどう考えてもサンチョ・パンサではない。だいたい彼女自身、自分をサンチョ・パンサだとは認識していないのだ。では誰をサンチョ・パンサと認識しているのか。これもほかならぬ古義人なのだ。もっとも古義人がサンチョ・パンサをつとめるのはこの小説の中ではなく、吾良との関係においてである。古義人にはそもそも道化的なところがあり、それが吾良とのかかわりの中で最もよく発揮される。その発揮のされ方というのが、サンチョ・パンサを思わせるというのである。

ローズさんは、古義人に面と向かって言う。「あなたは吾良のサンチョ役を五十年続けたんですよ」と。つまりローズさんによれば、古義人は生涯吾良のサンチョ役に徹したというわけだ。その古義人が、この小説では自分自身ドン・キホーテ役に徹している。だから古義人は、一人で二つの役をこなしているということになる。だがサンチョの役はうまく演じられなかった。とくに生涯最後の日々において。もしきちんとサンチョの役を演じ続けていれば、吾良を死なすことはなかったと、ローズさんは古義人を責めたりもするのだ。サンチョには、ドン・キホーテを正気にもどす能力もあり、その能力をうまく使っていれば、吾良をメランコリーから救い出すことができ、彼を自殺から遠ざけることができたはずだと言うのである。

この小説の中で、古義人の周辺に登場する人物たちにも、「ドン・キホーテ」中の登場人物に符合するものが多く配置されている。まず、不識寺の住職松男さんと三島神社の宮司真木彦である。この二人をローズさんは、司祭と床屋に見立てるのだが、かれらの役回りはドン・キホーテを世話するものとしての役回りである。ローズさんとしては、司祭を松男さん、床屋を真木彦に見立てたのだが、松男さんが古義人の散髪をするのを見ると、松男さんが一人で司祭と床屋を兼ね、真木彦はサンソン・カラスコだと思うようになる。サンソン・カラスコも、基本的には好意からドン・キホーテにかかわるので、ローズさんは真木彦をずっと好意的にみているわけだ。その真木彦が、古義人に致命的な打撃を与えるのであるが。

「ドン・キホーテ」中のもっとも許しがたい悪党は、ヒネス・デ・パサモンテであるが、これに相当する人物を古義人は黒野に割り当てていた。しかしその黒野が古義人に悪意ある行為をすることはない。それをするのは真木彦である。一方黒野自身は自分を「鏡の騎士」に見立てているが、鏡の騎士はサンソン・カラスコが変装した姿である。それに対して真木彦のほうは、現代の「銀月の騎士」に変装し、古義人に挑戦するというわけである。古義人はその挑戦を受けて立ち、手ひどく打ちのめされるだろう。

「ドン・キホーテ」後編には公爵夫妻が出て来て、ドン・キホーテをからかって楽しむのだが、この小説でそれに相当するのは田部夫妻だろう。もっとも、本物のドン・キホーテは夫妻によってからかわれてばかりだったが、古義人のドン・キホーテは、思い姫たるローズさんが夫妻によって侮辱されたことに反発して、かれらをぎゃふんと言わせている。その場面を読むと、ローズさんはドン・キホーテの思い姫ドゥルシネーアだと納得されるのである。



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