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憂い顔の童子:大江健三郎を読む


「憂い顔の童子」は、「取り替え子」の続編ということになっている。この二作に「さようなら、私の本よ!」を加えたものを大江は「奇妙な二人組」シリーズと銘打っている。奇妙な二人組というのは、第一作では大江の分身古義人と伊丹十三の分身吾良の組合せだと了解されたが、第二作目はかならずしも明瞭ではない。この小説では、吾良の存在感はほとんどないし、また筋書きのうえで古義人と吾良とが切り結ぶところもない。古義人は時折吾良のことを思い出しては、自分の少年時代を回想するくらいだ。なにしろこの小説の中の古義人は、自分が生まれ育った四国の山の中で暮らしていることになっており、勢い自分の少年時代を回想するように動機づけられているといってもよいのだ。

この小説には、古義人の伴侶のような女性が登場する。ローズさんというアメリカ人だ。彼女は古義人の研究者で、とりあえず古義人のモノグラフを書くために、奨学金を貰って日本に研究旅行に来ているという設定だ。しかも彼女は、古義人が暮らすことになった十畳敷きの小屋に一緒に住みこみ、研究のかたわら古義人と、かれの障害のある息子アカリの面倒を見るのだ。疑似妻のような役割を果たしているといってもよい。そんな二人を世間は、卑猥な目で見たりもするが、当人たちはわるびれる様子がない。かれらは、セックスを超越して、一文学者とその研究者という、きわめてビジネスライクな関係にあるのだ。その二人を、奇妙な二人組と言えないわけもないと思うのだが、どうも男女のペアを、奇妙な二人組というのは、はばかられるところがある。

古義人が四国の山のなかで暮らすことになったのは、表向きはかれの妻がベルリンへ長期滞在することになったからだということだが、本当の理由は、自分と故郷とのつながりをあらためて確認したいということにあった、というふうに思わせるよう設定されている。故郷とのつながりというテーマは、大江の他の小説にも共通しており、大江はくりかえしそれをモチーフとして小説を書いて来た。だからこの小説もその延長上にあるものといえなくもない。吾良との関係をテーマにした「取り替え子」でも、故郷とのつながりは触れられていたのだったが、それは付随的でというような位置付けだった。メーンテーマはあくまでも古義人と吾良との関係だった。ところがこの小説では、古義人と吾良との関係は背景に退いて、それにかわって古義人と故郷との関わり合いが前面にでてくる。だがそのかかわりあいというのは、古義人にとっては、冷酷な性質のものであるのだ。古義人は、この小説の中では、最後まで故郷の人びとと理解しあうことがなく、たえず排斥されていると感じざるを得ないのだ。

故郷で暮らすようになった古義人にとって、本当の理解者は妹のアサくらいなものだ。アサは、故郷で生まれ育ち、そこで結婚後も暮らし続けているので、故郷に根付いており、したがって古義人と故郷の人びととの橋渡しができる立場にいる。そんな妹でも、古義人の心の支えになることまでは期待できない。古義人の心の支え役になるのは、ローズさんだけだ。そのローズさんを古義人は、自分の老後を支えてくれる人としてあてにしだし、挙句は結婚まで申し込むのだ。妻と自分とは固い絆で結ばれているので、なにも結婚を続けていなくとも、その絆はゆるむことはない。だから自分の妻に気兼ねしないで、自分と結婚して欲しいと古義人は言ってローズさんを口説くのだが、無論ローズさんは、そんな申し入れをまともに相手にしない。彼女はしかし、性欲の盛んな中年女であり、その性欲を他の男で発散している。まず三島神社の神主真木彦によって、ついで途中から登場してきた人物織田医師によって。

ローズさんは、古義人の研究者として、古義人を良く知っている。かれの性格までもわきまえている。しかも古義人が、世の中から孤立して、時に迫害を受けることもあるのを、自分の体を張って守ってやろうともする。彼女は古義人の研究者であるばかりか、かれの庇護者でもあるのだ。そんな彼女が、研究とは別の目的から、古義人と共有するものがある。セルバンテスの小説「ドン・キホーテ」だ。この小説を古義人は、老後の生活を楽しむために読むのだが、ローズさんは、ドン・キホーテが古義人によく似ていると思って、純粋な興味から読んでいるようなのだ。どんなところが似ているのか。ドン・キホーテは、空想と現実の区別が出来なかったが、古義人にもそういうところがある。古義人は、小説の最初に近い部分で、オオサンショウウオを鬼畜と間違えて転倒し大けがをするが、それというのも、狭苦しい納骨堂の中で、異様に気分が高揚していたからだった。また、死人の道の場面では、御霊のはりぼてを本物の御霊と間違えて、恐怖のあまり転倒して、やはり大けがをする。更に、小説の終わりの部分では、幽霊と思われたものらに両側からかかえられ、それに抵抗しようとしてもみ合いになり、みたび大けがをする。このほかにも、古義人は、ローズさんをハラハラさせるようなことを繰り返すのだ.

そんな具合でこの小説は、古義人を、ドン・キホーテのような奇妙な人間として描いている。ドン・キホーテにはサンチョパンサという相棒がいたが、古義人にも同じような相棒がいたら、それこそ奇妙な二人組という言葉が相応しいだろう。だが、この小説には、ドン・キホーテにとってのサンチョパンサのようなキャラクターは見当たらない。従者のような存在としてはアヨという少年が出て来るが、かれはサンチョパンサの役回りとしてではなく、古義人がこだわっている童子の生まれ変わりのようなものとして出て来る。

ところでこの小説は、「憂い顔の童子」というタイトルのとおり、童子がテーマである。童子とは、大江の小説のなかに繰り返し出て来るメイスケさんとその生まれ変わりの少年を意味する。その童子を、古義人は当初アヨ君と見立てていたのだが、そのうち自分自身が童子のような役回りをするようになる。しかし現実の古義人はもはや老人であって童子ではない。百歩譲って古義人を童子と見立てたとしても、古義人には童子としての溌溂さはない。かれはいつも憂いぎみなのだ。だから「憂い顔の童子」というタイトルは、古義人をさすとすれば、つじつまがあうだろう。

こんなわけでこの小説は、四国の山の中を舞台に展開してきた大江の想像の世界を集大成したようなところがある。しかも語り方にゆとりがあって、これまでとはかなり違った印象をうける。それまでの大江の語り方には、独特の気負いがあったのだが、この小説の語り方には、そうした気負いは感じられない。文章はよどみなく進んでいくし、時にはユーモアを交えて、悠然とした流れを感じさせる。大江は、晩年の作品をレート・ワークと自ら呼んでいるが、レート・ワークにして新たな境地を開いたようである。



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