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大江健三郎「取り替え子」


「取り替え子」は、伊丹十三の死に触発されて書いた小説だ。伊丹は、大江の松山東高校での同級生であり、かつ妻ゆかりの兄でもあった。そんなこともあって、生涯の付き合いを持つようになったのだが、その間柄には複雑なものがあった。伊丹のほうが一つ年上ということもあって、かれらの関係は完全にフラットなものではなかったらしく、どちらかというと、伊丹のほうが大江をリードしていたようだ。大江がゆかりと結婚したいと言った時、どういうわけか伊丹は大反対したのだったが、それがどんな動機に出たものなのか、大江はずっと考え続けていた、ということがこの小説からは伝わって来る。そんなわけで、大江は伊丹について不可解な思いをいっぱい抱えていたようなのだが、それが伊丹の突然の死によって、永久に解明できなくなった。しかし伊丹は、死に先駆けて、大江に対してあるメッセージを残していた。それはある種、遺書のようなもので、それを読み解くことで大江は、伊丹と自分との関係をトータルに理解しようと努める。この小説は、そうした大江の思いを、なるべく第三者的な視点から追いかけたものである。

小説の中で伊丹は、塙吾良という名で出て来る。大江自身は長江古義人だ。デカルトの「コギト」をもじったものだが、同時に懐徳堂での学問である古儀学を意識してもいるということになっている。もっとも実際の懐徳堂は、少なくともその全盛期においては、正統派の朱子学を講じて徂徠らの古学には敵対していたはずだから(従って仁斎の古儀学にも否定的であったはずだから)、これは登場人物の評に仮託したものの言い方であろう。古義人の妻で吾良の妹は千樫という名で出て来て、かなり重要な役目を果たす。大江が小説の中で、妻に重要な役割を持たせるのは、これが初めてだ。

古義人への吾良からのメッセージというのは、カセットテープに録音した自分の声なのだった。吾良はその録音を古義人がすぐに聞けるように、再生装置まで添えて送ってよこした。テープの数は結構な量になる。それらは無論、吾良が死ぬ前に録音されたものだが、なかにはかなり以前のものもあり、また死の直前のものもあった。古いテープには、吾良と古義人との少年時代のかかわりに触れたものがあり、最近のものには自殺の意思をうかがわせるようなものもあった。あるテープには、「俺は向こう側に移行する」という言葉があった。

古義人は、再生装置とカセットテープの一式を田亀と呼んで、吾良が死んだ後は、それを聞くことにほとんど全力を尽くした。それを聞くことで、何故吾良が死んだのか、自殺だったのか、あるいは殺されたのか、その真相に迫りたいと思うのだ。死んだ吾良に対しては、マスコミから侮蔑の感情が示されていた。どんなに露骨に侮辱しても、死んだ者が反撃する恐れはないという安堵感が、その侮蔑の行為を助長している、と古義人は不愉快に思った。そんなこともあって、吾良が死んだ理由を一層切実に知りたいと思うのだ。

古義人は、最初の頃は吾良の死の手がかりを求めて田亀に聞き入っていたのだったが、そのうち、田亀を通じて吾良と対話するようになった。その対話が、吾良と自分との関係を深く考えるきっかけになったのだ。そのきっかけの中には、少年時代の思い出を呼びさますものもあった。それが古義人には、多義的な相貌を帯びて迫って来た。この異常な対話はしかし、小説の技法としては、筋書を展開させるための洒落た装置になりえている。読者は、かれらの対話を通じて、彼らの少年時代に何が起きたか、必要な情報を得られるのである。

そのうち古義人はベルリンに長期旅行することとなる。ベルリン自由大学から講師として招待されたということもあったが、田亀に没頭するあまり、ほかのことにはなにも気を配らなくなった夫に、妻の千樫が異常を感じ、気晴らしを兼ねて旅をすることを勧めたのだ。無論田亀は持参しないという条件で。ベルリンでは、吾良とかかわりのある事柄もあった。吾良は、映画関係の仕事でベルリンを訪れたことがあり、当地には吾良を覚えている人もいたのだ。また、吾良自身、ベルリンでのアヴァンチュールを田亀の中で語ってもいた。アヴァンチュールとは無論女遊びのことである。吾良には女にもてるところがあって、アヴァンチュールの機会には事欠かなかったようだ。

日本に戻って来た古義人は、再び田亀を聞くようになった。しかし、もはや吾良の死の理由を知ることが目的ではなかった。少年時代における、自分と吾良とのかかわり方が主な関心になった。古義人には、少年時代についての大きなこだわりがあった。それには二つあって、一つは敗戦の日に父親が銀行強盗を働き、殺されたことだ。それについて大江は、他の小説のテーマにしている。父親が敗戦の日に銀行強盗を働いたのは、権力への異議申し立てが動機であるというようになっている。

このほかに古義人には、もう一つのこだわりがあった。それを古義人は吾良と一緒に体験したのだった。その体験のことをかれらは「あれ」と呼んでいる。その「あれ」のことが、二人の間で徹底的に語られたことはない。その前に吾良が死んでしまったわけだから、「あれ」の体験を記憶しているのは、いまや古義人だけなのだ。もっとも、別な形であるが、その体験を共有していたものが外にもあった。古義人は、長い時間的なスパンをおいて、何者かによって襲撃された経験があって、それによって足にひどい打撃をこうむり、痛風に似た痛みに悩まされるようになったのだが、その襲撃を加えた者らというのが、「あれ」の影響をひきずっているらしいのだ。というより、「あれ」の当事者として、吾良や古義人に深い影響を及ぼしたのである。

小説の後半部は、「あれ」と呼ばれるものの実態が何なのか、それについての古義人の想起の努力に焦点を当てる。「あれ」というのは、父親による権力への反抗のバリエーションのようなものだった。父親の感化を受けた大横と呼ばれる人物が、父親の意思を継ぐ形で、権力への反抗を企てた。大横によれば、日本は戦争に敗れてすっかり負け犬になり、占領軍に尻尾を振るばかりだ。それが自分にはなさけない。このままでは、誰一人占領者に反抗することもなく講話の日を迎えてしまう。それは民族にとっての恥だ。そう思った大横が、大勢の弟子たちとともに立ち上がり、占領軍の基地を攻撃するという計画を立てた。その計画に、吾良と古義人もまきこまれるのだ。古義人は、大横の師匠の子としての資格で、吾良のほうは、占領軍のスタッフで大横らの計画に一枚加わったピーターという軍人が、かれの美貌に動かされて、同性愛の対象にしたいと考えた結果として。

この蜂起は,結局は実現しなかったが、吾良と古義人には、心のなかに大きな空洞のようなものを残した。吾良は、死ぬ前に、「あれ」をテーマにした映画を作りたいといっていたが、実現することはなかった。そのかわりに、映画化を前提とした絵コンテを残していた。それを見ることで古義人は、吾良が「あれ」と、それに巻き込まれた自分たちの体験をどのようにとらえているか、その一端がわかるような気がするのである。彼らは、蜂起に加わることはなかったが、大横の弟子たちによって、ひどく愚弄された。剥ぎ取ったばかりの羊の皮を、あたまからかぶされたのである。その際の屈辱的な感情が、吾良にはいつまでも残っていたようだった。古義人にも無論残っている。それはつらい体験であったから、二人が面と向かって話すことはなかったのである。

こんな具合でこの小説は、吾良の死に始まって、その原因を知ろうと努めるプロセスを描くうちに、いつのまにか、吾良と古義人の少年時代のかかわりあいへと焦点を移していく。少年時代の吾良との関わり合いを思い出し、それに一定の区切りを与えることで、古義人は心の中がいかほどなりとも整理されたと感じる、そんなふうな設定になっているのである。



伊丹十三と大江健三郎:取り替え子
小説の語り口:大江健三郎「取り替え子」
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Leap Before You Look 見る前に跳べ


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