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同じ年に生まれて:小澤征爾と大江健三郎の対談


過日、音楽家の小澤征爾と小説家の村上春樹の対談を読んで、非常に面白かった。小沢のほうが大分年が上だということもあって、対談の主導権を発揮しているように感じたものだが、それには村上のリードも働いていたわけで、村上は自分自身も音楽好きなので、小沢から音楽について学べるものを引き出してやろうという気迫を持っていたのだと思う。

小澤征爾と大江健三郎は「同じ年に生まれて」ということで、年齢によるギャップはない。だから対談は、どちらがリードするといったものではなく、ほぼ同等にしゃべっているのだが、大江はやはり言葉の専門家ということもあって、対談という言葉のやりとりをややリードしているようにも見えた。

村上との対談の際には、政治的な話題はほとんど出てこなかった。村上が意識的に避けたのかもしれない。小沢には、自分から対談の方向を設定しようという野心はないようなので、勢い相方の村上がそれを引き受ける形になる。その村上が、自分の敬愛する人物と対談できるとあって、この偉大な音楽家から、できるだけ話を引き出してやろうというような流れになった。だから話題は音楽に集中したわけだ。

それに対して大江は、かなり政治的な話題にこだわった。小沢もそれに呼応する形で、自分の政治的な意見を忌憚なく語った。小沢には、ことを構えて自分の意見を強弁しようとする傾向は見られない一方、自分の意見を隠そうというような気持ちもない。だから、意見を求められれば、きちんとそれに応えるという姿勢を示している。そこがなかなか潔く感じられた。

大江は、例によって民主主義へのこだわりを語る。大江のいう民主主義、つまり戦後民主義とは、どうやら権力からの自由を内実とするもののようだ。それは戦時中少年として感じた、(全体主義的な)社会の息苦しさへの反発に根差しているようだ。戦後その息苦しさから解放されて、自分の好きなことができる自由を得られた。その自由を最大限活用して、自分は自分の好きなように生きて来られた。だからその自由を脅かそうとする動きには敏感にならざるをえない。脅かそうとするものは、国家主義の衣を着たがる。そういう連中は、一方で日本至上主義を主張し、もう一方で排外的な言動をする。石原慎太郎などは、そのいい例だ。自分はそういう人間には同調できない。そんな自分なりの考えを大江はこの対談で何度も話題にとりあげている。

大江の言う戦後民主主義は、世界に向かって開かれた日本を前提にしているようだ。その開かれた在り方は、国として開かれているというより、日本人一人ひとりが世界に向かって開かれているあり方を言う。日本人としての特殊性を誇るのではなく、世界中の人々と、同じ人間としてつながりあっているという意識が大事ということだ。そこで今日の日本人のそうした意識の状態を見ると、なかなかなか世界に向かって開かれているとはいいがたい。いまやネットの時代となり、個人が個人としてそのまま世界とつながるような時代となったが、そんな時代でも、個人はあいかわらず閉鎖的な状況から脱し切れていない。今後も脱することはなかなかないのではないか。そう大江が言うと、小沢も同調して見せた。小沢のように、日々世界を飛び回っている人間の目から見て、日本人は相変わらず自分の殻から抜け出ることができていないと見えるらしい。そこで小沢は、「本当に大事なのは人間対人間なんだ」と叫ぶのである。

こんなわけで、二人の対談は、大江のリードによって、政治的な発言が目立ったものになっているのだが、大江は、自分の息子が音楽好きということもあり、また自分自身も音楽が好きなのだろう、その音楽の専門家である小沢を前にしては、ある程度音楽も話題にしないではすまない、そう思ったのだろう、ときたま音楽に話を向ける。そこで小沢が、音楽についての、自分自身の体験的な意見を発するわけだが、それがなかなか面白い。小沢は、音楽の起源は自然現象にあるというのだ。音楽は音から成り立ち、その音はもともと自然現象に含まれているものだから、音楽の起源は自然現象にあるといわれると、さもありなんと思われないでもないが、小沢の口からそういう言葉が出て来ると、権威が感じられるから不思議なものだ。

小沢によれば、自然の音の中には倍音が含まれているという。人間の作り出した音楽とは、この倍音を意識的に展開させたものだと小沢は言うのだ。ハーモニーが倍音の組合せからなっているのはもとより、個々の音の単位が倍音の節目の音だ。自然の音は、それだけでは必ずしも快適な音楽にはならない。やはり音のなかから選りすぐって、人間の感性を揺り動かすような音の組合わせを追求しなければならない。その場合にキーとなるのが、倍音ということらしい。音楽には素人の小生のようなものでも、こういう話を聞かされると、なんとなく自分が利口になったような気がする。

ところで、政治の話にもう一度戻ると、先ほど述べた日本人の閉鎖性は、ネット時代といわれる今日、ますますひどくなっているのではないか。そんなふうに、小生にも思われる。隣国を口汚く罵る一方、日本という国の国柄をわけもなく称賛する。まさにヒステリックな国粋主義的言説が、ネット空間には氾濫している。こういう傾向は、日本では、本居宣長の国学以来盛んだったわけだが、最近ではそれが草の根レベルまで拡散して、日本人全体がヒステリー症状にとらわれているように映る。これは非常に困ったことである。



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