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燃え上がる緑の木:大江健三郎を読む |
「燃え上がる緑の木」の三部作を書き終えた時、大江健三郎は60歳になったばかりだったが、この小説を最後にもう長編小説を書くことはやめようと思ったというから、この小説を自分の作家としての集大成と考えていたのだと思われる。自分の生涯の集大成と言うからには、大江のそれまでの作家としての営みの成果を集約したものが、この作品には盛られているということだろう。実際この作品にはそう思わせる要素がある。一つには、四国を舞台に展開してきた、彼一流のユートピアへのこだわりがこの作品には見られるし、また障害のある子供を始め、自分自身の家族へのこだわりもある。この二つの要素は、大江のそれまでの作品を貫く太い水脈のようなものであった。その要素を大江は、この作品のなかで融合させ、一つの大河として提示したと言えるだろう。 この小説にはもう一つ、大きな要素がある。宗教である。大江は宗教という言葉は使わず、「魂のこと」と言っているが、書かれているのは、個人の魂の救済にとどまらず、多くの人を巻き込んで展開する集団的な熱気であるから、宗教と言ってよい。宗教というものは、多かれ少なかれ、集団的な事象であるから。この小説の中で「魂のこと」として言及されているものは、宗教以外の何物でもないと見てよい。 しかし、大江自身は宗教的な人間ではないようだ。彼はこの小説を含めた自分の作品の中では、自分(あるいは小説の語り手)を無神論者と断っているし、この小説においても、宗教的な人間としてのギー兄さんには、自分が帰依しているものの自覚は強くない。かれは、自分の魂が救われることを願うのだが、それが誰によって救われるのか、確信がないようなのだ。だからこそ、宗教と言わずに、魂のことと言うのだと思うが。いずれにしても、宗教的なものの雰囲気が、この小説の大きな要素となっていることは間違いない。 この小説における宗教的なテーマについては、別稿であらためて取り上げることとして、ここでは、この小説の全体構造について見てみたい。三部作構成のこの小説はかなり長く、全体で原稿用紙二千枚分はあるだろう。日本の文学史上、これほど長い作品は、一部の大衆小説を除けばそれまでにはなかった。こんなに長くなったのは、やはり語り口の独特な悠長さのためでもあろう。この小説は、さっちゃんと呼ばれる両性具有者の手記という形をとっているのだが、小説はそのさっちゃんの目に映った世界の動きを追う一方で、さっちゃん自身の心の動きをも独特の位置づけから描いているので、かなり重層的な構造になっている。メーンプロットとしては宗教運動の展開と結末という形をとる一方、それに嚙合わせるかたちで、さっちゃんという語り手の成長の記録にもなっているのである。そういう意味では、宗教がからんだ教養小説といってもよい。教養小説は長くなりがちなものだ。 人物設定は、語り手であるさっちゃんとギー兄さんを中心にして、大江がそれまで描き続けて来た小説、それは主に四国の谷間を舞台とした小説群だが、そうした既存の小説の登場人物が、一部は形を変え、一部はそのままの形で、再登場する。もっとも肝心なさっちゃんとギー兄さんは、この小説が初登場だ。ギー兄さんには先行する人物像があって、先のギー兄さんと呼ばれ、この小説の中のギー兄さんはその後継者という形になっている。かれをギー兄さんと呼び始めたのは祖母なのだが、オーバと呼ばれるこの祖母は、四国を舞台にした大江の小説群で、村の神話と伝説を語る老婆として出て来たところだ。この祖母は、大江にとっては、親戚の本家筋というあつかいだ。この小説には、総領事と呼ばれる男が重要な役回りで出て来るが、これはK叔父さん(大江の分身)の兄ということになっている。だから、総領事の息子であるギー兄さんは、大江の甥という位置づけだ。大江が、自分の兄を小説のモデルとして登場させたのはこれが初めてだが、妻や子供たちの他、妹も再登場させている。 語り手のさっちゃんは、オーバとは血でつながっておらず、したがって大江の血族ではなく、オーバによってもらわれたということになっている。だから、ギー兄さんと性的に結ばれてもおかしくはないわけだ。この小説は、さっちゃんがギー兄さんの子を身ごもり、その子がギー兄さんの衣鉢を引きついで新たな救い主になるだろうことを予想させながら終わるのだ。このほか、ザッカリーのような、別の小説から横滑りしてきたような人物もいるが、亀井さんとか伊能三兄弟とか、この小説で初めて出て来た人物も多い。 第一部は「救い主が殴られるまで」と題して、ギー兄さんが魂のことで自覚を深め、それが周囲の人々を動かして四国の山の中を拠点にした宗教運動のようなものが盛り上がり始めるところを描く。その盛り上がりに不気味さを感じた人々によって、ギー兄さんは殴られるのだが、それを甘受するギー兄さんは、迫害を甘受するキリストのイメージで描かれている。第二部は「揺れ動く(ヴァシレーション)」と題して、さっちゃんの放浪とギー兄さんの心の揺らぎがテーマとなる。さっちゃんが放浪の旅に出たのは、信仰が揺らいでいるギー兄さんに失望したからだ。ヴァシレーションという言葉は、ギー兄さんの信仰の揺らぎを象徴しているようなのだが、言葉の出典はイェーツの詩である。この小説では、イェーツへの言及が多い。総題の「燃え上がる緑の木」もイェーツの詩からとった言葉だ。第三部は、ギー兄さんを教祖とかつぐ宗教運動がたかまり、社会的な反響を呼ぶようになるが、ギー兄さん自身は、自分個人の魂のことにこだわり、教祖としての位置からみずから下り、その挙句殺されてしまうプロセスを描く。ギー兄さんを殺したのは、かつて敵対していた革命運動グループのメンバーだということになっている。そういう話を挿入することで大江は、一時日本で盛んになった過激派の問題を、彼なりの視点から考えたということなのだろう。 こう整理すると、この小説は、基本的には、ある宗教運動の発展と挫折の過程を描いたというふうに輪郭づけすることが出来そうである。そういう意味で、宗教小説といえる。だが、先ほどもちょっと触れたが、大江自身にはあまり宗教意識があるとは思えない。その大江がなぜ、宗教をテーマにした小説を書く気になったのか。大江はあくまでも宗教という言葉を使っておらず、魂のことという言い方をしているが、その魂のことは、どうやら個人の魂の内部に止まるというふうに考えられているようだ。もしそうなら、宗教ではなく、倫理とかモラルとか、あるいは良心とか言ってもよいようである。 語り手としての両性具有者:大江健三郎「燃え上がる緑の木」 大江健三郎と宗教:燃え上がる緑の木 革命党派と反原発:大江健三郎「燃え上がる緑の木」 揺れ動く(ヴァシレーション):大江健三郎「燃え上がる緑の木 |
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