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静かな生活:大江健三郎を読む


「静かな生活」は、大江健三郎の義兄にあたる伊丹十三が、そのままのタイトルで映画化していて、小生は原作を読む前にそちらを見たのだったが、その際に、これは原作に必ずしも忠実ではないのではないかとの印象を持った。その理由というか、根拠は二つあった。一つは、別の小説、例えば「性的人間」のプロットの一部が使われていること、もう一つは主人公である少女が、悪い奴に強姦されそうになるシーンがあること。いくら小説とはいえ、自分の娘だと世間に向って表明しているものが、強姦されそうになるところを書くというのは、人間としてどうかという思いがあり、それで大江の原作にはそんなことが書かれているはずがないと、勝手に思い込んだ次第である。

ところが、実際に小説を読んで見ると、筆者の印象とは反して、伊丹十三の映画は、小説をかなり忠実に再現しているとわかった。映画のように露骨ではないが、大江の娘である少女は、イーヨーの水泳コーチたる青年から性的な攻撃を受け、絶体絶命というところで、イーヨーに助けられるのであるし、また、「性的人間」の中のプロットも、小説のなかに取り込まれていた。というわけで、小生の映画から受けた印象は、かなり手前味噌なところがあったわけだ。

それはともかく、この小説は、大江が初めて自分の娘を語り手に設定したものだ。大江は、「キルプの軍団」では、自分の次男を語り手に設定し、「人生の親戚」では、女性をはじめて語り手に設定したわけだが、この小説では、自分の娘を語り手に設定することで、自分の家族の視点と女性の視点とを融合させながら、小説の語り方の新たな実験をしているといった趣がある。

語り手たる大江の長女は、両親が長期間アメリカのカリフォルニアに出かけて不在の間、残された三人の子供たちの、実質的なリーダー格として、家を切り盛りする立場に立たされる。彼女はその間、いわば家長として、兄・弟の面倒を見るのだが、とりわけ兄については、年は彼の方が上であるにしても、様々な能力の上では自分がリードする立場にあり、かつそのことを十分にわかっているので、自分自身が姉のような気持ちで、兄であるイーヨーをかいがいしく世話するのだ。そのイーヨーと自分との関係を娘は、「私がお嫁にいくならね、イーヨーと一緒だから、すくなくとも2DKのアパートを手に入れられる人のところね。そこで静かな生活がしたい」と言っているように、生涯面倒を見るべき同胞と受け取っているのである。

映画では、長女がイーヨーを連れてプールに通い、そこで一人の青年からコーチを受けるうちに、その青年との間にトラブルをかかえ、果ては強姦されそうになる経過がメーンプロットになっているのだが、小説では、それはいくつかのプロットの一つにすぎない。そのほかには、イーヨーの作曲の指導をしてくれているKとのかかわりとか、タルコフスキーの映画「ストーカー」にまつわる話とか、エンデの児童向け小説「モモ」のこととか、いくつかのエピソードがオムニバス風に語られる。それらのサブ・プロットの間には、深い関連がないので、それぞれが独立した話として完結しているように映る。だからこの小説は、一片の長編小説というよりは、いくつかの短編小説の集まりといってもよい。

そうしたいくつかのサブ・プロットのうちでもっとも印象が深いのは、「この惑星の捨て子」というものだろう。これは、イーヨーが自分の作った曲に「すてご」というタイトルをつけたことにまつわる話なのだが、イーヨーがそんなタイトルをつけたのは、自分が父親に見捨てられたと感じたからではないか、という疑問に結びついている。その疑問は、父親である大江自身に向けられたもので、それをイーヨーの指導者Kは、次のように言葉として表すのだ。「(大江の)その自分本位の振る舞いが、イーヨーに自分は捨て子にされたのかと疑わせているのだとすれば・・・おれはKがこれまでどんな観察力を働かせてきたものか疑うね」。つまり大江は、第三者の眼を借りて、自分自身を冷静に分析しようとする努力をこの小説を借りて行っているともいえそうである。

この小説の全体を通じて大きなモチーフになっているのは、語り手たる娘と彼女の兄イーヨーとの関係である。その関係の一端は、二人の間の強い絆として、すでに触れたところだが、そのほかに注目すべきものとして、二つあげられる。一つは兄妹の関係にまったく性差を感じることがないことだ。語り手は当然女性であり、兄は男性だが、その女性の語り手である妹が、兄を男として意識している様子はほとんどない。二人の関係は、まったくジェンダーフリーといってよい。こういう関係は、いくら兄妹の間でも、珍しいのではないか。

もう一つは、障害者である兄のイーヨーが受ける差別を、妹の語り手が自分のこととして受け止めるところである。そんな差別の例として、バスの中でイーヨーが若い女から「落ちこぼれ」と罵られる場面が出て来るが、それに対して妹は、無論怒りやくやしさを覚えるが、それに強くこだわるわけではない。兄の不幸を自分の不幸として内面化するあまり、兄がそうした差別に強くこだわらないその姿勢を、自分も又身に着けてしまっている。そんなふうに描くことでこの小説は、兄と妹との間の精神的なつながりの強さを表現してもいるわけである。

大江の小説の一つの癖として、特定の作家への大江自身のこだわりを書き込むということがあるが、この小説の場合には、フランス人の作家セリーヌへのこだわりが紹介される。セリーヌを小生は読んだことはないが、世の中への自分自身のこだわりを逆説的に表現するタイプの作家らしい。そのセリーヌに対して、語り手たる大江の娘が、なみなみならぬ興味を示すという形で、小説は描き出しているのである。

語り手がセリーヌに関心を寄せるのは、セリーヌの障害者に対する接し方に共感を覚えたからだというふうになっている。セリーヌは、知恵遅れの子どもたちを「私たちの小さな白痴たち」と露悪的に呼ぶのだが、そうした露悪的な態度の裏には、かえって人間的なやさしさが感じられる、というのが語り手の感想なのだ。セリーヌを読んだことのない小生には何とも言いようがないが、大江は、偽善的な人々が往々にして障害者に対して差別的な言動をしがちなのにたいして、露悪的なセリーヌには、障害者を自分と同じ人間として見る、ある種のバランス感覚があると思っているようである。

そんなわけでこの小説は、セックスに拘ってきた大江としてはめずらしく、セックスを超越した兄妹の関係を描くとともに、障害者への心ない差別にひそむ非人間性をあぶりだしているように見える。



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