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キルプの軍団:大江健三郎を読む


大江健三郎は、自分の小説「キルプの軍団」に自分で注釈をつけて、これは少年が大人になるうえで経験しなければならぬ通過儀礼(イニシエーション)を描いたものだと書いた。興味深いのは、その少年というのが、高校生になった大江自身の次男だということだ。大江は、障害をもって生まれて来た長男については、「個人的な体験」以来、ずっと小説のなかで取り上げ続けてきたのだったが、次男について取り上げることは、主題的な形では一度もなかった。その次男を、高校生という微妙な時期に焦点を合わせて、初めて小説の主題的なテーマにしたのが、この「キルプの軍団」という小説なのである。しかもこの小説は、当該の少年自身の語ったこととして語られる。ということは、彼のイニシエーションが、第三者の目から見た形で語られるのではなく、少年自身の体験として生々しく語られるということだ。

イニシエーションとは、少年が、(大人たちあるいは社会によって)過酷な試練を課され、それを乗り越えることで大人になる過程をいう。文化人類学上の概念だが、いわゆる未開社会では、今日でも普遍的に見られる現象と言われている。文明国では、そんなに露骨な形でのイニシエーションの儀式は珍しいものになってしまったが、しかし少年が大人になるためには、それなりのプロセスが必要であり、まったく何の困難や試練を経験せずに、あっさりと大人になっていく少年は、いないと言ってよいのではないが。そのプロセスを、いまではイニシエーションと呼ぶことはないが、その代りに思春期の危機とか、反抗期の嵐といったような言葉で表現している。

大江が、あえてイニシエーションという言葉を使ったのは、この少年が、思春期の危機という言葉で済まされるような微温的な経験ではなく、それこそ自分の命を掛けるような深刻な体験をしたということを強調したかったためだろう。大江がそういう体験を、小説の中でのこととはいえ、自分の次男にさせ、しかもそれを次男自身の口から語らせる形をとったことには、長男とは違った形での、父親としての息子への向かい方についての自覚が働いていたのだろう。

では、その少年が体験したイニシエーションとはどのようなものだったか。イニシエーションには、試練に直面することと、それを乗り越えることとの、二つの局面がある。この少年の場合には、直面した試練とは、肉体的な試練ではなく精神的な試練であった。しかも自分自身にかかわる試練というよりも、他人を巻き込んでの試練だった。少年は、親しくなった人々がある危機的状況に陥ったときに、警察官である叔父からの救助へ向けての呼びかけを無視して、その人たちを危険にさらした上に、そのうちの一人を死なせてしまった。少年はそのことに深刻な責任を感じ、自分がその人を殺したのも同然なのだから、自分は人から殺されても仕方のない事情があると思い込むようになる。そのことで少年は深刻な精神的危機に直面するのである。

その危機は、何日間にもわたって、夢の中でうなされるという形をとる。そこから少年は回復して、試練を乗り越えることになるのだが、それは、父や兄など家族から受けた気遣いや、少年が愛読していたディケンズの小説によって心を癒されたことによるというふうになっている。だが、その辺のところは、小説はやや早足の印象で書いているので、多少説明不足というか、甘いところがあるかもしれない。

ところで、少年を危機に陥れた者は、過激思想集団だったということになっている。大江がなぜここで過激思想集団を持ち出したのか、多少わかりづらいところもあるが、過激思想集団といえば、「洪水はわが魂に及び」始め、色々な小説の中で大江がこだわりをもって描いて来たテーマだ。それをこの小説の中でも持ち出したということなのだろうが、小説のメーンプロットの流れから、あまりにも逸脱した印象を与えるので、なぜこんな連中が少年のイニシエーションとかかわることになったのか、いまひとつすっきりしないところもある。

大江はこの過激思想集団のことを、「キルプの軍団」というふうに呼んでいるわけなのだが、それにはディケンズの小説「骨董屋」が深いかかわりをもっている。そのことについては、別稿で取り上げたいと思う。

ともあれこの小説は、次男がイニシエーションを経て大人になっていく過程を、大江が父親としての立場から書いたということなのだろう。しかも、父親としての自分の視線からではなく、少年自身の目線から描いたというところに、この小説のユニークさがあると言える。少年のイニシエーションをテーマにした小説は、ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」を始め星の数ほどあるが、このように少年自身が自身の体験を語るという切り口の小説はめずらしい。



ディケンズとドストエフスキー:大江健三郎「キルプの軍団」


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