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小説の感性的効果:大江健三郎「M/Tと森のフシギの物語」


「M/Tと森のフシギの物語」の単行本初版には、数多くの挿絵のほか、すべてのページに版画を印刷してあり、本文はその版画を地にして浮かび上がるような具合になっているので、読者はいきおい版画の図柄を気にしながら文章を読むことになる。これは普通の本ではないことなので、まず驚きが最初に来たが、読み進んでいくと、版画の存在は、特別うるささは感じさせないようだ。版画の印刷が注意深くなされ、読書を妨げないような工夫がなされているせいだろう。また、その版画の図柄がこの小説の雰囲気とつりあっていることも働いているようだ。

その図柄というのは、樹木がうっそうと茂った森の様子である。その森の図柄は、中央部がへこんで見えるので、谷間を思わせる。森の中にある谷間とは、まさにこの小説の舞台となっているところだ。それゆえ読者は、谷間の雰囲気にひたりながら、この小説を読むというような具合になる。つまり、テクストの文章によるシンボリックな受容と並行するかたちで、小説の世界が醸し出すものを感性的なかたちでも享受することになるわけだ。

挿絵をともなったテクストなら珍しくない。読者は挿絵を通じて小説の世界を二度体験する。まずテクストを通じて、ついで挿絵をつうじて。その場合の挿絵は、テクストを理解するための補助的な役割を果たすことになるだろう。読者はテクストを通じて受容したものを、挿絵を通じて二重に受容するわけである。

しかし、この小説のように、図柄が挿絵としてではなく、テクストにとっての地として働く場合には、また別のことが起るように思われる。読者はとりあえず、地の図柄を意識することなく、テクストを読み進むはずだ。地を意識していては、おそらくテクストを読み進むことはできないだろう。その意味では図柄は、ないにひとしいわけだが、といって、まったく何等の効果も及ばさないかといえば、そうではない。でなければ、このような装置はまったくナンセンスということになろう。

その効果とは何なのか。先ほど、読者はこの本を通じて、小説つまりテクストをシンボリックに受容するのと並行する形で、図柄を通じて感性的に受容するといったが、その受容の仕方はとりあえず意識にはのぼらない。意識に上るようでは、テクストを円滑には読み進めないからだ。しかし、やはり読者に対してこの図柄は一定の効果は及ぼしているのだと考えられる。それは意識には上ってこない効果だが、無意識のレベルでテクストの受容の仕方に一定の役割は果たしているのだと思う。

この図柄は、全ページを通じて同じものである。もしも図柄がページによって異なっていたら、図柄はもっと強い形で意識に上るようになるだろう。実際数多くある挿絵は、そのどれもが独特のメッセージを帯びていて、それらがかわるがわる出て来るたびに、読者の意識は一定の緊張を強いられる。その緊張は、読者の読書体験を豊富にする方向で働くと思うのだが、その緊張があまり頻繁に起こると、読書そのものに悪い影響を及ぼすに違いない。ましてや、この小説のなかの地の図柄が、ページごとに読者に緊張を強いるならば、読書体験そのものが棄損されてしまうことだろう。この小説のなかの図柄は、そのあたりを考慮しているようで、読者に一定の緊張をもたらしながら、それが過度に意識に上らないように工夫されているようである。というのも、筆者の場合で言えば、この図柄によって一定の緊張を覚え、それによって自らの読書体験が豊かになるのを感じながら、図柄によって読書が妨げられることはなかったのである。

この小説にはまた、楽曲の音符が出て来る。これは語り手の息子が作曲した曲の音符ということになっており、その曲はそれで、小説のなかで一定の重要な役割を果たしているのだが、大江が、その曲の音符をわざわざページの中に差し込んだ理由は何なにか。言語の形をとったテクストでは味わえないものを、この音符で味わってほしいということか。音楽の素養のあるものなら、この音符を見ただけで、すくなくともメロディは再現できるだろう。そのメロディを通じて、その読者は言葉で書かれたものを、音の形でも受容できる。そう大江は考えて、サービスのつもりで、この音符をさしはさんだのだろうか。

どうも、そうとばかりもいえないようである。というもの、読者には音符の読めないものも数多くいるはずで、そうした読者にとっては、音符は、音楽的なツールとしては、全く意味をなさない。小説がすべての人々に開かれたものであるべきならば、意味をなさないものを小説のなかにわざわざ持ち込むのは、マイナスの効果しかもたらさない。

大江は、この音符を、おそらく音楽的なメッセージとしてよりも、挿絵と同様の、視覚的メッセージとして持ち出したのではないか。音符のイメージは、表紙の装丁としても出て来るが、装丁の図柄はとりあえずテクストからは独立しているので、音楽的なメッセージとしてよりも、視覚的メッセージとして受け取られる可能性のほうが大きい。

このように、音楽的なメッセージとしてはあまり働かないものをあえてページのなかに差し挟んだのは、おそらく大江の息子へのこだわりがもたらしたのだろう。

ともあれ、大江がこの小説のなかで試みたことは、視覚的といい、音楽的といい、感性的なメッセージを小説のなかに仕込むことで、小説の読み方を多彩なものにし、それを通じて、読者の読書体験を豊かなものへと導きたい、というようなことではないか。



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