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河馬に噛まれる:大江健三郎を読む


大江健三郎は、連動赤軍に思い入れがあるらしく、浅間山荘事件の翌年に「洪水はわが魂に及び」を書いている。この作品は、ストレートな形では連合赤軍をイメージさせるものではなかったが、物語の枠組みとかプロットの組み立て方に連合赤軍を想起させるものがあった。核シェルターを舞台にした青年たちと国家権力の戦いは浅間山荘事件を思い出させるし、仲間の殺害は連合赤軍が引き起こした一連のリンチ殺人事件を想起させる。ただ大江はこの作品のなかに、核戦争の脅威という人類の大きな課題をもちこみ、また精神薄弱な息子を登場させることによって、物語の構造を重層化させていたので、連合赤軍をあからさまにテーマにしたものだとの印象をやわらげてはいた。

「河馬に噛まれる」は、「洪水はわが魂に及び」の十年後に書かれたが、この作品の中で大江は、連合赤軍と直接向かい合うような書き方をして、自分としてこの問題をどう見ているか、かなり率直に語っている。その語り口からは、大江が連合赤軍を一方的に非難するのではなく、かれらの行動や考え方に同調していると思わされる部分もある。そうすることで大江が何をめざしたのか。大江の読者としては考えさせられるところがある。

この作品は何篇かの短編小説からなっているのだが、互いが響きあうようになっていて、全体として一つの物語を構成するように出来ている。物語の中軸に位置しているのが「河馬の勇士」と呼ばれる青年で、かれがその綽名を頂戴したのは、アフリカで河馬に噛まれたことによるとなっている。この青年が、作品のなかでは、浅間山荘事件を引き起こした若者の中での最年少の少年だったという設定になっているわけである。その青年と語り手との触れ合いを通じて、あの連合赤軍事件とは何だったかについて、大江は小説のかたちを借りて、考えようとしているともとらえられる。

大江の語り方は、まるで実在の人物との触れ合いを語っているように見えるのだが、無論ほとんどは虚構であろう。その虚構とないまぜな形で、自分の息子を始めとして多くの実在する人物が出て来るので、読者としては、あたかも大江が自分の本当の体験を語っているように思わされるのである。

浅間山荘事件のさいの、グループの最年少の構成員は、当時十六歳で、事件後十年以上刑務所に収監されていたはずである。それがこの作品のなかでは、事件後すみやかに社会復帰し、いまでは三十代の青年になったという設定である。その設定からして、この作品が大江の創作になるものだと知られるのだが、小説の書き方が巧みなために、読者はあたかも、それが現実のことのように受け取ってしまうのである。

作品にはもうひとり重要な人物が出て来る。ほそみさんといって、リンチ殺人事件の犠牲者となった女性の妹だという設定である。その妹が、自分の姉がどのようにして死んでいったか、それを知りたいと願って、「河馬の勇士」に接近する。そのあげくに、「河馬の勇士」や彼が属していた集団を憎むのではなく、かえって彼らの思想に理解を示すようになる。そんな彼女に語り手である大江は、すくなくとも批判したりはしないことから、自分自身も彼女の考えかたに一定の理解を示すばかりか、「河馬の勇士」がかつて属した集団にも一定の理解を示しているように伝わって来る。

「洪水はわが魂に及び」においては、若者たちには大した思想的な背景があるわけではなく、単にこの世の秩序から逃れたいという、いわばアナーキスティックな願望に突き動かされていただけだったが、従って彼らの行動は若者らしい反逆の発露というふうに伝わって来たのだったが、この作品のなかでの「河馬の勇士」は、明確な思想を持っているわけではないが、彼が属していた集団にはいまだに帰属意識を抱いているらしいし、したがって自分のかつての行動を、全面的に否定する気にはなれない。もっともその行動を促した思想がどのようなものだったか、この作品のなかではあえて触れられていない。

そんなこともあって、ほそみさんが「河馬の勇士」を理解したなりゆきになっても、彼女がなぜ「河馬の勇士」と彼が帰属した集団を理解するようになったのか、そのへんはあきらかではない。ただ、彼女は、リンチ殺害の責任者であったMとかNとかについて、かれらにも相応の理由があったかのような言い方をしており、自分の姉を理不尽に殺したことについて、彼らを責めてはいない。そうした態度は、連合赤軍の考え方に一定程度の理解を持たない限りありえそうもないと思うので、彼女つまりほそみさんと、ほそみさんを通じて大江自身が、連合赤軍の思想に一定の理解を示していたのではないかと思わされるところだ。

その連合赤軍のことを大江は「左派赤軍」と言い換えて、ストレートな関係をぼかそうとしているようだが、読者の目には見え透いた細工のように映る。

大江はこの作品を「洪水はわがたましいに及び」と関連付けたかったのだろう、両者を関連付ける細工をいくつか試みている。精神薄弱の息子を登場させているのがまずひとつ。前作ではこの息子はジンという名前で出て来て、専ら語り手である父親の心を和ませる役割を果たしていた。この作品のなかでは実名で登場し、二十歳の若者らしいところもみせている。まだ自立するには遠いが、自分なりに自我を意識するようにもなっている。自分の発言で人が傷ついたことを認識できるだけの繊細さを持つようになったと書かれているのだ。

また、核戦争の脅威については、この作品のなかでは特別の一章を割り当て、核兵器のむごたらしさを強調している。核兵器についての強いこだわりは、前作の最大のテーマだったわけで、そのために前作は核兵器の脅威という面が前面に出て、連合赤軍へのこだわりは副次的なものになってしまったのであったが、この作品では、核問題が脇役になった部分、連合赤軍の問題が前景化したのだろうと思う。

それにしても、大江が連合赤軍に対して親和的な態度をとっていることの、その背景がいまひとつわからない。小生などは、彼らのとった行動はいわゆる左翼小児病であって、たいした思想的背景があるとも思えない。彼らの評価は、思想の問題としてよりは、心理学の問題ととらえたほうが正しいのだと思う。



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