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個人的な体験に見る大江健三郎の役者廻し


大江健三郎の小説は人物設定の巧みさを感じさせる。小説というものは大部分が会話から成り立っているから、その会話の主体たる人物をどう設定し、彼らにどんな会話をさせるかが、小説の善し悪しを決定づける。大江の人物設定は過不足なくしかもタイムリーで、個々の会話を生き生きとして描いているばかりか、小説の進行に緊張感を持たせている。歌舞伎の良し悪しが役者廻しの巧拙に左右されるように、小説の善し悪しは人物設定の良し悪しに左右されるといえ、その点では大江は小説の名手ということができる。あるいは小説における役者廻しの名人と言ってもよい。

「個人的な体験」は大江にとって初めての本格的長編小説だった。長編と短編とでは単に分量の相違のみではなく、全体構想や登場人物の規模においても根本的な相違がある。大江はその相違をうまく処理して、この小説をすぐれた作品に仕立て上げている。その最大の要因は人物設定の巧みさだ。この小説には、規模の割には結構多くの人物が登場し、それらが複雑な絡み合いを見せるのだが、その絡み合いが破綻なく展開し、全体として緊張感のある小説にしている。そこには大江なりにシビアに計算されたシナリオが介在しているのだと思う。小説家には、あらかじめ綿密な全体構想を決めた上で、それを丁寧に展開していくタイプと、構想はゆるやかで可塑的なものにしたまま、書き進めながら展開を模索するタイプとがあるが、大江は前者の典型だと言えよう。

小説の登場人物には、おのずからそれぞれの役割に軽重がある。主人公を中核として、その近くで主人公と深く関わり合う人物から、周辺的で、場合においては一回限り登場する人物に至るまで、段階的にさまざまな程度の役割分担がある。これらの人物群がそれぞれ自分に課せられた役割を、期待に応える形で演じることによって、全体としての小説にまとまりの形がもたらされる。各自の役割には、小説の進行における寄与度とか、あるいは道化的人物のような小説に色を添える効果とか、それぞれに役柄の相違はあるが、それらが一つも無駄にならないように適度な絡み合いを見せられるかどうかが、小説の良し悪しを決定づける。

「個人的な体験」において中核的な役割を果たすのは、主人公のバードとその女友達火見子である。この二人の絡み合いの様相については前稿で詳しく触れたところだから、ここでは改めて触れない。ただ一言だけ付け加えると、この二人の間で展開される人間同士のいやしといやされの相互関係がこの小説の最大の眼目だということだ。この関係によって主人公のバードは人間として立ち直ることができる。一方火見子は一方的に与える役割に限定され、彼女自身が他人からいやされることはない。そこには、女とは本来与えるだけの存在なのだという大江の信念のようなものが反映されているのかもしれない。

バードと火見子についで強い存在感を主張しているのはバードの生まれて来たばかりの子どもである。この子は生まれたばかりだから当然言葉をしゃべらない。だから会話の主体としてはありえない。小説の登場人物の存在意義が彼または彼女の発する言葉によって測られるものだとしたら、この生まれたばかりの子どもは登場人物というのはあたらないかもしれない。しかしこの子どもは、主人公であるバードの行為を制約し、その意味で彼との間でコミュミケーションをしているように見える。言葉に寄らないコミュニケーションではあるが、言葉に劣らず明確なメッセージをこの生まれたばかりの子どもは発するのだ。

この子どもは、主人公であり自分をこの世に送り込んだ人間であるバードに向かって、ぼくを殺さないでくれ、というメッセージを発する。そのメッセージは言葉では表現されてはいないが、言葉に劣らず明確な意味を、主人公のバードに対しては持っている。バードが個人的な体験と表現し、自分がその体験の孤独な穴ぼこのあいだにはまり込んでしまったと感じるのは、この子どもが発する言葉によらないメッセージのためなのだ。そのメッセージは様々なレベルでバードに迫ってくるが、最期には次のような形をとるに至る。

「赤んぼうは、なおも、アイ、アイ、アイ、イヤー、イヤー、イヤー、イエー、イエー、イエー、イエーと泣き叫んだ」 そうすることで自分を殺さないでくれと生みの親に向かって呼びかけているのだ。実際この赤んぼうがこのように叫んだ時、バードは彼を殺す決意をしていたわけである。そんな彼であるから、「われわれにはそれを聴き取る能力がなくて幸いだよ」と、不安にかられながら言うのである。

バードの子どもを生んだ妻は、ただ妻とばかり書かれていて、と言うのもバード自身が彼女を妻と呼ぶからでもあるが、子ども同様名前では呼ばれていない。子どもの場合には、どうせすぐ死ぬのだから名前をつけてやるまでもないだろうとの配慮が働いていたのに対して、妻の場合にはすでに名前を持っていたはずだ。にもかかわらずバードが彼女を名前で呼ばないのは、彼女に対する強いわだかまりを感じさせる。バードは彼女に、重い障害を負った子供が生まれて来たとは伝えていないのであるが、それはもしそう伝えたとしたら、耐えられないような修羅場に直面するだろうとの恐れがあるからである。

その恐れを妻の母も共有している。妻の母はバード以上に障害を持った子供を重荷に感じていて、できればこの世から抹殺して欲しいと思っており、その思いを婿のバードに対して隠さない。それゆえバードはこの母親をきたならしい企ての共犯者だと思うのである。

バードの自分の子どもを殺したいという願いには、一部の医者たちも肩を貸してくれる。この小説の中の医師の描き方は、きわめて否定的で、医師は人の生命に責任を強く感じる倫理的な人間とは描かれていない。そこには日本の医療に対する大江のシニシズムが働いているのかもしれない。

そのほかの周辺的な人物の中でもっとも興味深いのは、バードがまだ少年時代に付き合っていた男である。菊比古と言うこの男は、バードよりもいくつか年下で、つねに一緒に行動していたのだったが、ある時バードは、この年下の少年を見捨てたことがあった。バードはこの少年のことを、自分が落ち目になったと感じるようになった時に思い出したのだが、なぜかその少年の菊比古という名前を自分の子どもにつけてしまう。その理由をバードははっきり意識出来ないでいる。そして火見子の案内で、久しぶりにその少年に再会した時、彼から憎悪の眼を向けられる。その眼はバードの利己心を糾弾しているのが明らかだったが、その糾弾をバードは自分に向けられた正当なものとして受け取られずにいられなかった。

次に火見子の女友達が出て来る。この女友達も火見子同様世の中とうまく折り合いがつけられない人物ということになっている。火見子が世の中とうまく折り合いがつけられていないのは、妻子のある男に自分の運命を無造作にあずける行為に現われているが、彼女の立ち居振る舞いにもそうした折り合いの悪さが感じられる。それを小説は次のように表現している。

「彼女はおそらく終生自分の子どもを生むこともないだろう。バードは大学の初学年のころの、そろって生きいきした女子学生たちのグループのなかのもっとも生きいきとした火見子のことを思い出し、泥水をはねちらして不器用な犬のように駈けて行った現在の火見子に憐憫を感じた」

その火見子に比べても、彼女の女友達は精彩なく描かれている。この小説の中で唯一、中途半端な存在にとどまっている人物だ。

このほか、スラブ系のデルチェフ氏とか、彼をとりまく人物、バードがつとめている予備校の学生たちとかその経営者といった人物が次々と出てくるが、みなそれぞれに小説の進行に一定の役割を果たしている。人物設定に無駄がないわけである。





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