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空の怪物アグイー:大江健三郎


大江健三郎は昭和三十九年の一月に短編小説「空の怪物アグイー」を発表するが、これは彼のそれまでの小説とはかなり毛色の変わったものだった。この小説は子殺しをテーマにしているのだが、その点では「芽むしり仔撃ち」と共通する点がないでもないが、「芽むしり仔撃ち」がある種の告発であるのに対して、したがって他者に向けられたものであるのに対して、この小説は大江自身への内省をもとにしたものであって、したがって自分自身に向けられたものである。彼がここで取り上げている子殺しは、自分自身が犯したかもしれない可能性をあらわしているようなのである。

大江が自分自身へ向けて小説を書くのはこれが初めてだといえる。それまでの彼の小説は、「芽むしり仔撃ち」にかぎらず、社会への問題提起であったし、したがって自分自身のことはあまり問題とはしていなかった。ところがこの小説は、自分自身の存在のあり方を極めて倫理的な視点から描いている。大江のことだから、その描き方は極めて錯綜している。一応主人公はいるのだが、その主人公は分裂した形で出て来る。小説の語り手であるぼくと、ぼくがアルバイトに雇われることになった不思議な人物、銀行家の息子で作曲家と称する青年だ。この二人が大江自身の分身としてこの小説には出て来るのである。そのうち、作曲家のほうは、自分が殺した子どもの幻影に取りつかれていることになっていて、語り手のぼくは当初は部外者としての立場からそんな作曲家の不思議な行動を観察しているのだが、やがて作曲家の気持に共感し、それを分有することになる。そうすることで、作曲家による子殺しの意味を立体的に明らかにしようとしているのである。

この子殺しというテーマに大江がこだわるに至ったのには、彼自身の個人的な体験が働いていると見てよい。大江には前年の六月に長男が生まれたのだったが、この子が脳に深刻な異常があった。大江はとりあえずその子に手術を施して命の危険を取り除いてやったのだが、それについては色々思うところがあったようで、その思いの一端をこの小説のなかで吐露したと見られるところがある。その思いはさらに、彼の初めての本格的な長編小説「個人的な体験」のなかでも繰り返されることになる。それをここで詳しく述べることは差しひかえたいが、要するに命の意味について懊悩したということのようである。

人間の命の意味については色々な考え方が成り立ちうるが、その一つの考え方を大江はこの小説の人物作曲家の青年の口からつぎのように言わせている。もっともそれは青年自身が直接語ったこととしてではなく、青年の離婚した妻の言葉としてであるが。その妻は次のように言うのだ。

「自分たちが植物みたいな機能しかない(それはその医者がそう予言したのよ)赤ん坊をひきうけなければならないのはいやだ、ということで赤ん坊を死なせたんだから、それはなによりもひどいエゴイズムね」

つまり父親となった青年は、脳に深刻な傷害を持ってうまれて来て、普通の人間として生きていくことができる見込みはなく、植物のような状態で生き続けるのだとしたら、その子にとっては別として、その子の親としてはそれを自分の定めとして受け入れるいわれはない、という思想を抱いたわけだ。ただ抱いたわけではなく、それを実践して見せた。青年は医者と共謀してこの子を殺してしまったのである。

しかしそのことでその青年は深刻な復讐を受けることになる。復讐というのはほかでもない、自分で殺した自分の子どもの幻影にそれ以来悩まされることになるのだ。その幻影とは、「カンガルーほどの大きさで木綿の白い肌着をつけた赤ん坊で、名前はアグイー」というのだ。題名の「空の怪物アグイー」とはその幻影を指しているわけである。

それ故この小説は、子殺しについての極めて倫理的な問題をテーマにした、きわめて倫理的な作品だといってよい。大江にはもともと倫理的な傾向があったが、自分自身が倫理的な問題をめぐる葛藤を経たことで、倫理について極限まで鋭い問題意識を追及するように自分を誘導したということだろうか。ちなみに大江自身はこの小説とは違う選択をしている。彼は子どもの障害を受け入れ、その子どもが人間として最大限の可能性を追求できるように、親としてできる限りのことをしようと決意したわけである。

この小説の中の子どもの父親は荷厄介な子どもを殺すことで実生活上での困難から逃れたわけだが、そのかわりに心に深刻な傷を蒙った。その傷をこの小説は「空の怪物アグイー」という形で示した。この怪物はもとより青年自身の内部から生まれた幻影であるから、実体はない。あたかも実体があるように青年が振る舞っているだけだ。この青年は、痩せて小柄な男であるにかかわらず、頭だけは異常に大きく、まるで赤ん坊がそのまま大人になったようであった。それは、「じつは大男になるべき人間だったのに幼少期のなにかの障害でこういう小柄な人間になった」のではないかとも思われ、それはおそらく、「かつて赤ん坊を生きさせることを拒否したと同じように、こんどは、自分が積極的に生きることを拒否した」ことの結果ではないかと思われるのである。

結局青年は、積極的に生きることを拒否するにとどまらず、自殺してしまう。この青年の自殺を前にして語り手のぼくは、初めて青年との一体感を感じる。彼は死につつある青年に向かっていうのだ。

「あなたは自殺するためにだけぼくを雇ったんですか? アグイーなどあれはカムフラージュだったんじゃありませんか?」そしてぼくは涙に喉をつまらせながら自分にも意外なことを叫んでしまったのだ。「ぼくはアグイーを信じてしまうところだったんです」

アグイーを信じるとは、その保護者であり、取りつかれてもいる者と一体化するということだ。そのためにこの語り手自身も心に深い傷を負うことになるのだが、なぜそうなってしまうのかは、必ずしもすっきりとはわからない。

ともあれこの小説が、子殺しという極めて倫理的な問題をめぐって、人間としていかに振る舞うべきかという極めて倫理的な選択あるいは葛藤を描いたものであることは間違いない。 





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