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大江健三郎「他人の足」:死ぬこととしての未来と性のディストピア


「他人の足」は、「死者の奢り」とほぼ同時に書かれた。「死者の奢り」とその前の「奇妙な仕事」がいずれも死をテーマにしていたのに対して、この小説は死を正面から取り上げてはいない。かといって死をスルーしているわけでもない。いわば側面から取り上げている。死はこの小説においては、メインテーマではなく基調低音のような役割を果たしているのである。

この小説は結核療養所が舞台になっている。そこに病気が治る見込みのない若い患者たちが収容されている。彼らには病気が治る見込みがないから、社会復帰する見込みもないし、生きていながら半分死んだような状態に置かれている。なぜなら彼らには普通の若者のような未来はないからだ。彼らに待っている未来は、死ぬこととしての未来だ。彼らはいまはたしかに死んではいないが、やがて死ぬことが確実だ。その死が三十歳で訪れるか、四十歳で訪れるか、時期の違いはあるにしても、死ぬべくして死ぬことには違いない。普通の人も死ぬには違いないが、しかしすくなくとも若い時期には死を意識することはない。ところがこの療養所の内部の若者たち(僕と少年たち)は、常に死を意識して生きている。死は彼らにとって馴染深いものなのだ。

その彼らが生きている証は、どうやら性欲を感じる時らしいということがこの小説からは伝わってくる。この小説の中の若者たちは、看護婦に性器をマッサージされ、射精をすることで性欲の発露を体験し、その体験を通じて自分が生きていることを確認できているらしい。彼らはそのことにあるうしろめたさを感じているが、だからといってそれを拒絶することはない。彼らは看護婦の手に身をゆだねて性欲が満足されることを楽しんでいる。

看護婦がそんな事をするのは、彼らをおとなしくさせるための手段だというふうに伝わってくる。若者は、他に何もすることがない状態で、性欲だけが高まると、自分の健康のためにもよくないし、また周囲にも悪い影響を及ぼす。性欲が高まってそれが処理できないでいると、その抑圧されたエネルギーが反社会的な行為に向かわないとも限らないからだ。だから若者の性欲をコントロールすることは、若者自体にとっても社会にとっても有益なことだ。でなければ看護婦が若者の射精を手伝うということが正式にプログラムされることはないだろう。

そんなところへ、一人の足の悪い若者がやってくる。その若者にも看護婦たちは他の若者と同様の処置を施す。つまりいやおうなく若者を発情させて射精に導くのだ。その手洗い扱いを受けた新しい若者はショックを受ける。そして「僕は犬みたいな扱いを受ける」と言う。「僕は子供の時、犬を発情させて遊んだことがあるけど、今発情させられるのは僕だ」というわけである。

そこからその若者の抵抗と攻勢が始まる。彼は療養所の患者たち(複数の少年と一人の少女)に働きかけて、生きることの意味を考えるように仕組むのだ。その結果、療養所にいる少年・少女たち(子供といってもよい)が感化される。ただ僕ともうひとりのひねた(自殺未遂をした)子供は冷淡さを装っている。しかし若者の感化力は強く、自殺未遂の子供も少しずつ感化されていくし、僕も感化されそうになる。感化されるというのは、今まで無関心だった外界のことに関心を持つようになるということだ。そこで今までは療養所の中に閉じ込められていた若者の世界が、外とつながるようになる。それを小説は「粘液質の透明な壁に、深い罅が入る」と表現している。

若者に感化されたことの影響は、少年たちが看護婦による射精を拒絶することに現われる。彼らは性的なコントロールを拒絶することで、自立しようと思うわけである。逆に言えば、自立した人間は自分の性欲を自分でコントロールできる。他人によって自分の性欲をコントロールされることはない、ということになる。

こんなわけで、この小説では人間をコントロールする手段として性欲が使われているのである。人間をコントロールするやり方には色々なものが考えられるが、性欲にターゲットを定めると言う発想はいかにも大江らしい。すくなくとも大江以前に、性欲のコントロールをディストピアの条件として提示したものはないのではないか。あのオーウェルの場合には、性欲はコントロールの手段としては用いられず、逆にコントロールからの人間の解放を実現するものとして描かれている。

もっとも大江がそれにどこまで自覚的だったかはわからない。しかしかなり性欲にこだわっているのは間違いない。というのも、この新しい若者が療養所から去ると、少年たちと看護婦の間に再び例の行為が復活するからだ。その若者がいなくなることで、少年たちは再び自分たちの殻に閉じこもることになる。すると今まで持っていた自立の感情を失う。自立の感情を失った若者たちは、自分の性欲を持て余すようになる。そこで再び彼らの性欲をコントロールする必要がよみがえる。こうして性欲のコントロールとしての強制的発情と射精とが復活するのである。

僕もまたその行為の快楽を共有した一員だった。むしろ自分から看護婦にその行為をねだったくらいだ。すると看護婦はすこし当惑した表情を見せながら、僕の性器をいじってくれる。「初めに、乾いて冷たい掌が、荒々しく触れた。看護婦は満足そうに繰り返していた」。そして「なんだか変だったわよ、近頃ずっと」と看護婦が言って、小説は終るのである。

というわけでこの小説は、性欲のコントロールを通じて人間を支配するディストピアを描いたものと言えそうである。





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