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空車:森鴎外の矜持


森鴎外の小文「空車」は、文字通り空車について述べた感想文のようなものである。これを鴎外は「むなぐるま」と呼び、古言だという。それに対して「からぐるま」と読むのは「なつかしくない」といって、自分としては「むなぐるま」という古言をあえて使いたいという。

そのように断ったうえで、鴎外は「むなぐるま」の働く様子を描写するのである。いわく
「わたくしの意中の車は大いなる荷車である。その構造はきわめて原始的で、大八車というものに似ている。ただ大きさがこれに数倍している。大八車は人が挽くのにこの車は馬が挽く。
「わたくしはこの車が空車として行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道せましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、大股に行く。この男は左顧右眄することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人という語はこの男のために作られたかと疑われる。
「この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである」。

このように描写された「むなぐるま」は、独立不羈、自尊孤高の精神を感じさせる。そのむなぐるまに自分を重ねることで、鴎外が人間としての矜持を語っていることは明かなようである。

この小文を鴎外が書いたのは、大正五年(1916)五月である。鴎外はその年の四月、陸軍医務局長を退き予備役に編入されていた。つまり、長い間の軍人生活から自由になり、以後は創作に余生をおくるつもりでいた時期である。一月には「渋江抽斎」の新聞連載を始めていた。鴎外としては、生涯のテーマとなった史伝の執筆に専念する条件がそろいつつあった。そんな時期に際して、鴎外が文学者としてのみならず、人間としての生き方、矜持を「むなぐるま」に託して宣言したいと考えたには、相当の理由があるといえる。

鴎外は、これより六年後に肺結核で死ぬのであるが、その際に友人の賀古鶴所に遺言を代筆させ、その中で次の言葉を入れさせた。
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス 森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス 」

これはまさに、むなぐるまのように独立不羈のまま生涯を貫きたいとする鴎外の自尊感情のあらわれであるといえよう。かれはただ、一人の人間として死ぬことを欲し、世俗の名声に拘泥することをいさぎよしとせなかったのである。


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