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森鴎外の舞姫始末記


森鴎外がドイツ留学から帰国したのは明治21年9月8日である。ところがそれから幾許もたたぬ9月12日に、ドイツ人の女性が鴎外の後を追って日本にやってきて、築地の精養軒に泊まっているという知らせが鴎外を驚愕せしめた。この女性が果たして何者かについて、鴎外自身は殆ど語る所がないが、これこそ彼の初期の傑作「舞姫」のモデルになった女性ではないかとの憶測が、文学史上かまびすしく語られてきた。

この女性の名はエリーゼ・ヴィーゲルトといった。舞姫の女主人公エリスと名前に似たところがある。これが先の憶測にいよいよ信憑性のようなものを付け加える結果になったのである。

この女性の登場にびっくりしたのは、鴎外は無論、彼の出世を祈る家族や友人たちも同様であった。鴎外の弟篤次郎と妹婿の小金井良精が代理人になり、エリーゼを早期に帰国させるように説得しにかかった。鴎外自身も何度かエリーゼのもとに出向いて、説得したらしい。

エリーゼが何故日本に来たのか、残された関係者の記録からは、はっきりとしたイメージが伝わってこないのだが、エリーゼが鴎外と結ばれることを目的に来たことは、前後の事情から判断して、どうも確実らしい。そんな彼女を鴎外とその係累たちは、あっさりと追い払おうとしたのである。

説得は困難だったようで、弟の篤次郎などは数日間エリーゼにかかりきりになった。内輪だけの努力では拉致があかないので、陸軍関係者まで動員してエリーゼの説得を重ねた結果、10月17日、エリーゼはついに折れて、来日したときと同じ船「ゼネラル・ヴィーダー号」に乗って、ドイツに帰っていった。片道40日もかけてはるばる日本にまでやってきたのに、恋人と頼んだ男に冷たい仕打ちをされ、在日することわずか一月ばかりで日本を去ったのである。

このエリーゼがどんな女性であったか、鴎外の妹小金井喜美子が回想記の中で書いている。

「エリスはおだやかに帰りました。人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行末をつくづく考えさせられました。」

妹喜美子に限らず、エリーゼに接した人の印象は、お人よしだが無思慮で、少し足りないところがあるというものだった。鴎外が「舞姫」のなかで描いているエリスのイメージとは一致しないのである。

鴎外はエリーゼがドイツに帰った後、半年もたたぬ翌年2月24日に赤松登美子と結婚した。エリーゼの事件に驚愕した家族が、鴎外に早く嫁を持たして、身を固めさせようと計ったのである。

赤松登美子との結婚は、鴎外の恩人である西周の斡旋によるものだった。登美子の父赤松則良は旧幕臣で西とは若い頃から仲がよく、上野戦争の最中オランダにともに留学していた仲だった。薩長がはびこる世にあって、榎本武揚や津田真道ら旧幕臣グループの連中と助け合いながら生きてきた、戦友のような間柄だった。

だが登美子との関係は長く続かなかった。彼らは上野の不忍池近くの赤松の所有になる屋敷に住んだが、とかくすれ違うことが多かったようだ。鴎外はこの屋敷で初期の創作活動を開始し、舞姫もここで書いている。(この屋敷は現在「水月ホテル鴎外荘」になっている)

鴎外の文名を慕って多くの文人たちが集まるようになった。鴎外は彼らと協力して雑誌「しがらみ草紙」を発行し、いよいよ文名をあげていく。しかし登美子はその輪に入ることがなかった。鴎外はそんな登美子を煙たく思っていたようだ。

翌年の九月には長男の於兎が生まれるが、鴎外はその直後家を出て登美子を離縁し、生まれたばかりの長男を登美子から引き離してしまった。

まだ20台の青年がしたことではあるが、鴎外は自分を慕ってはるばるドイツからやってきたエリーゼに対しても、また結婚して子を産んだばかりの妻に対しても、あまり人間的な態度を示したとはいえない。

ところで舞姫エリスのモデルになったと思われるエリーゼについて、鴎外が「独逸日記」の中で全く言及していないのは不思議なことだ。そもそも漢文で書かれた原本の中には、あるいはあったのかもしれない。鴎外はそれを、発表を前提として和文に書き換える際、ことごとく排除したとも考えられる。何せ官僚として前途洋洋たる身である、そんな身にとって旅先での恥のかき捨てとはいえ、色恋や浮気沙汰は瑕となる、そんな打算が働いたと考えられぬでもない。

鴎外は独逸日記を生前ついに発表せずに終ったのだが、そこには舞姫のモデルを憚るのと同じような事情が、発表をためらわせたのかもしれない。



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