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森鴎外「安井夫人」:女の生き方


森鴎外の小説「安井夫人」は、幕末の漢学者安井息軒とその妻佐代を描いたものである。「興津弥五右衛門の遺書」を皮切りに歴史小説を書き綴ってきた鴎外にとって、その延長上での執筆であるが、それまでの小説とはやや趣を異にしている。テーマというほどのものがなく、息軒とその妻佐代の生涯を手短に淡々と綴ったこの小説は、小説というより、歴史上の人物に関する簡単な史伝といった趣を呈しているのである。

安井息軒は松崎慊堂の後の世代を代表する儒学者であるばかりか、日本の漢学を集大成させた人物である。そうした意味で時代を画した偉大な学者であった。だが安井息軒がその学問の体系を整えた丁度その直後に、日本の漢学は洋学に押されて凋落してしまった。そうしたことを考えると、彼の残した事蹟は歴史の流れのほとりに咲いた一輪のあだ花だったということもできよう。

この安井息軒について、鴎外が知るようになったのはいつごろのことだったか、明確ではない。鴎外は若年の頃の漢学の師匠依田学海を通じて、幕末の漢学者の事情について多少知るところもあったに違いないが、それらについて深い関心を抱くようになったのは、歴史小説に手を染めるようになった晩年のことではないか。

鴎外がこの小説を書いたのは大正三年のことである。執筆の直接のきっかけを作ったのは、前年の暮に出版されたばかりの若山甲蔵著「安井息軒先生」という書物であった。これは息軒の生地宮崎で刊行されたもので、息軒の学業よりもむしろ生前の生き方に焦点をあてたものだった。

著者の若山甲蔵は「善作者、不若善改者、善改者、不若善削者」という言葉を巻頭に掲げ、叙述の緩慢なることを恥じていた。鴎外はそれに答えるような形で、原作を改削し、自分なりの息軒伝を書き上げたのである。ただし息軒その人より、佐代夫人に多くの紙面をあてた。

佐代夫人は16歳の若さで安井息軒に嫁いできた。それも当時の慣行どおり親や周囲の取り計らいによってではなく、自分の意思にもとづいて息軒を夫に選び嫁いできたのだった。

息軒は子どもの頃にかかった疱瘡がもとでひどいあばた面になり、しかも方目がつぶれていた。その上背が低く色黒で、どう見ても醜男であった。そんな男を佐代は16歳の若さで、しかも評判の美しさにかかわらず、あえて自らの意思で夫に選んで嫁いで来た。それも、もともとは姉の縁談として持ち込まれたものを、姉が息軒の醜悪振りを嫌って拒絶したのを受けて、自分が息軒の嫁になりたいと母親に申し出たのがきっかけだったのである。

息軒に嫁いできた後の佐代が、幸福であったかどうか、鴎外は多く筆を弄していない。佐代は終生夫に仕え、4人の女の子と2人の男の子を生んだ。そして51歳で死んだ。そんな佐代について、鴎外は次のように言うのみである。

「お佐代さんがどう云ふ女であったか。美しい肌に粗服を纏って、質素な忠平に仕へつつ一生を終った。

「お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと云ってしまふだろう。これを書く私もそれを否定することはできない。併し若し商人が資本を御し財利を謀るやうに、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだといふなら、私は不敏にしてそれに同意することができない。

「お佐代さんは必ずや未来に何者をか望んでゐただらう。そして冥目するまで、美しい目の視線は遠い、遠いところに注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕を有せなかったのではあるまいか。其望の対象をば、或は何者とも弁識してゐなかったのではあるまいか。」

かくいう鴎外の筆致には突き放したような冷たさもあるが、その筆の合間にはお佐代さんこと安井夫人に対する深い共感も感じられる。

鴎外が安井夫人佐代を通して、女の生き方について一石を投じたのには、それなりの時代背景もあった。平塚らいてうが中心となって女性のための雑誌「青鞜」を発刊したのは明治44年のことであるが、これが刺激となって大正の初め頃には、女の自立やその生き方についてかまびすしい議論が展開されていた。鴎外のこの小説は、そうした風潮に対する鴎外なりの反応だったと見ることもできる。

鴎外は平塚らいてうとは個人的にも付き合いがあり、その運動の趣旨のよき理解者でもあった。彼女らの合言葉たる「新しい女」を鴎外がどう受け取っていたか、それを理解するきっかけがこの小説の中にあるかもしれない。

平塚らいてうらのいう「新しい女」とは、封建的な束縛を振り切り、自分の意思で生きる女をさしていた。こういえば格好よく聞こえるが、自分の意思で選び取ったその生き方を、果たしてどう生きたらよいのかは、また別の問題である。らいてう自身は複数の男たちとの婚外性交(今日で言う不倫)を始め、かなり型破りな生き方をするのだが、それが新しい女の行き方のすべてではあるまい。

鴎外は安井夫人佐代の生き方の中に、女としての生き方のひとつの規範的なあり方を見出して、それに深く共鳴したのではないか。佐代は自分の意思で夫を選んだ限りにおいては、「新しい女」であった。だがその後の生き方は夫のために己を尽くしたというその限りで、従来の女と異なるところはなかった。従来の女と違うところは、それが強いられた忍従ではなく、己の意思にもとづいたものだったということだ。

鴎外は佐代の生き方の中に、自分の意思で自分の運命を受け止める強さを見て取ったのではないか。その結果は結果としてうけながそう、大事なのは、自分の意思で自分の人生を選び生きたという、その一事にある、そう鴎外は言いたかったのではないか。

安井夫人佐代に対する鴎外の同情は、やがて女性の美徳である献身ということについてのこだわりに発展していく。鴎外はこの献身をテーマにして「山椒大夫」を書き、また女の生き方を追求することから「渋江抽齋」を書き、その発展上に史伝三部作を完成させていくのである。



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