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森鴎外晩年の歴史小説


森鴎外の晩年における創作活動は、今日歴史小説といわれているものに収束していく。彼は大正元年51歳のときに、明治天皇の死に対してなされた将軍乃木希典の殉死に触発され、「興津弥五右衛門の遺書」を書くのであるが、これがきっかけになって、殉死に象徴される権力と個我との緊張について思いをいたすようになった。阿部一族以下次々と書き継いだ歴史小説は、その思いを深化させ、検証していく過程ともいえる。

鴎外がこれらの作品を通じて訴えかけようとしたものとは何か。なかなか難しい問であり、それについての文学史的な研究もそう進んでいるとはいえない。

鴎外は長い間、漱石と並んで近代文学の偉大な開拓者としての地位を与えられてきた。だがその生き方や作風には自すから違いがある。漱石が在野の一作家として、生涯を通じほぼ同一の問題意識を追及し、年を経るごとにそれを深化させたといえるに対して、鴎外の場合には、軍医という職業柄ながら、高級官僚としての道を歩み、その傍ら創作活動を続けた。また軍務の多忙によって中断された長い時期を挟んで、前期と後期とでは創作上の著しい違いがある。

「舞姫」によって代表される前期の作品が文語体をもって書かれ、「半日」以後の後期の作品が口語を以て書かれているといった、外形的な違いのみにとどまらない。

前期の鴎外は、ドイツ留学を通じて育くんだ西洋文学の知識を以て、日本文学に清新な空気を送り込んだ功績はあるといえ、それらの作品に今日にも通じるような普遍的な文学性があるとはいえない。まして深い思想性があるともいえない。鴎外が前期の延長線上で創作を続けていたなら、漱石ほどに評価されることはなかっただろう。

だが鴎外は晩年とも言うべき時期を迎えて、ものに付かれたように創作活動を再開した。明治42年(48歳)に雑誌「スバル」に発表した「半日」は、自分の身辺に題材をとった小品で、内容については、大したものを見ることもできぬが、鴎外にとっては、創作活動を再開するための準備運動に相当したのであろう。

鴎外は「半日」に続いて、「ウィタ・セクスアリス」、「青年」、「雁」と、立て続けに作品を発表した。それらの作品群は、今日でも鴎外の代表作といわれている。それらに共通して流れているのは、封建社会から近代社会へと移り変わりつつあった、過渡期の日本社会の中で、個我というものが、現実に生きる人間にとってどのように可能であるか、といった問題意識であったように思われる。

この点では、鴎外はあるところで、漱石と共通な問題意識にたっていたともいってよい。

作家としてやっと地歩が確かなものとなりつつあったそんな鴎外にとって、衝撃的な事件がおきた。乃木将軍の殉死である。鴎外はこの事件に触発されて、「興津弥五右衛門の遺書」という小品を書いた。乃木希典の殉死については、発狂説とか自殺説が流れてもおり、世間の論調はかならずしも乃木の殉死の意味に関して好意的だったわけではなかった。鴎外はこうした風潮に対して、抗議の意を表わすために、この小品を書いたのだとも言われている。とにかく、乃木の死を知った数日後には脱稿したという早さであった。

鴎外はこの小品の中で、殉死というものがもっている美徳のようなものを描き出すことで、乃木の殉死に意味を持たせようとしたのだと考えられる。個人的な事情をいえば、鴎外は陸軍において、乃木とは親しい間柄であった。鴎外が軍医総監まで出世できたのは、山県有朋はじめ長州閥の贔屓があったからだといわれるが、乃木はその長州閥のチャンピオンのような人物であった。(鴎外は長州の隣国石見の出身である。)そんなところから、鴎外は乃木に対して個人的な感情も持っていたのである。

鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」を書いた後、やはり殉死をテーマにした作品「阿部一族」を書いた。だが同じく殉死といっても、興津弥五右衛門の場合には主君から認可され、したがって祝福された殉死であったのに、阿部一族の場合には、殉死は犬死に終ったばかりか、その一族たちはことごとく滅び去らなければならなかった。

この相違を考えるうちに、鴎外は殉死というものを通じて、主君と家臣、権力と個我との緊張関係について、思いをいたさないではいられなくなった。

殉死を選び、またそれにこだわらざるを得なかった鴎外の小説の主人公たちは、体制にがんじがらめに縛られ、そこに自分の存在意義を置きながら、なおも個我としての自分自身にこだわる人間たちであった。鴎外はそんな人間たちを描くうちに、一人の人間としてのあり方をぎりぎりのところで支える、普遍的な感情を見出すようになっていった。

鴎外はそれを「意地」と名付けている。「意地」とは鴎外にとって、人間としての尊厳を支えるぎりぎりの感情であり、しかもそれは時代を超えて、人びとがよりどころにしてきた普遍的な感情なのであった。

「阿部一族」の後、鴎外は「佐橋甚五郎」、「語寺院原の敵討」、「大塩平八郎」といった作品を次々と書いていくが、それらはみな、人間としての「意地」をテーマにしたものだったといってよい。

鴎外は意地を前面に押し出すことによって、人間の人間としての尊さを考え直してみたいと思ったのではなかったか。人は意地のためには許されない殉死もするし、また途方もない権力と戦うこともできる。その権力を前にしては、小さな個人の「意地」などは、容易につぶされてしまうものではあるが、しかしいかなる権力といえども、個人の「意地」に体現したその人の人間としての尊厳までつぶすことはできぬ。これが鴎外のいいたかったとこだろう。

鴎外は「意地」を書くことと平行して、献身の美しさについても書くようになった。「山椒大夫」に現れた安寿の献身について考えてもらいたい。鴎外はこの安寿の献身を、説教節のテクストの中から発掘してきたのだった。説経では安寿の献身と並んで、厨子王丸による復讐が大きなテーマになっているのだが、原作と鴎外の翻案とを読み比べればわかるとおり、鴎外は復讐のテーマはさっぱり切り取って、献身というものに焦点を集中している。

意地にしろ、献身にしろ、日本人が古来身につけてきた尊い美徳である。それが鴎外の生きていた明治の社会においては、衰えつつあったのではないか。鴎外はそのような危機意識を感ずるようになったのではないか。

このような問題意識にもとづいて歴史小説を書き続けるうちに、鴎外はついに「史伝」と称されるものに手をつけるに至る。「渋江抽齋」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」の三部作である。従来は小説として必ずしも高い評価があったわけではないこれらの諸作は、今日では鴎外の到達した最高の作品群だとされるようにもなった。

これらの史伝においては、歴史小説のテーマであったものは、表向きは出てこない。史伝と称されるように、文章は考証学的な厳密さを追求し、文学的な装飾はできうる限り排されている。

この三部作の主人公たちはいづれも医者である。鴎外は自身が医者であることにこだわり、自身のアイデンティティを見直す意図のもとにこれらの作品を書いたとする見方も成り立ちうるだろう。だがこれらの作品を通読すると、そこには単なる歴史的事実の羅列にとどまらない雰囲気のようなものが伝わってくる。

それが何なのかは、読者が自分自身の心で捉える必要があろう。筆者はそれを友情がかもし出す暖かい雰囲気だと感知している。鴎外は、人間にとって意地は無論必要なものではあるが、しかしそれだけが大切なものなのではないと感ずるようになった。たとえば友情や愛やそれらを支えるものとして献身というものがある。献身とは他者のために自己を犠牲にすることである。それは利害を重んじる今日的な感覚からすれば、あるいは理解しがたい感情かも知れぬ。だが人間の生き方という面からこれをとらえなおしてみれば、これほど尊いものはほかにありえない。

鴎外はこの献身や愛や友情というものを追及するうちに、人間にはせせこましい利害を超越した尊い感情が宿っているのだと感得した。人間には、互いに人間として支えあうような感情が備わっており、それゆえにこそ人間はどんな辛いことにも耐えて生きていくことができる。

こうして鴎外は、友情や、家族の愛や、ひいては人のために自分を犠牲にして悔いない献身というものに、人間が人間として生きていくうえでの普遍的な徳性というべきものを見出した。鴎外の最晩年の創作活動は、こうした想念を展開して見せるための営為であったということもできる。

鴎外の最高傑作ともいえる「渋江抽齋」以下の史伝三部作は、これを一言でいえば、愛と友情と献身の文学なのである。



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