日本語と日本文化


村上春樹のカタルーニャ国際賞スピーチを読む


村上春樹さんがカタルーニャ国際賞の授賞式で読み上げたスピーチ原稿を読んだ。全面的にというわけではないが多くの部分で共感するところがあり、聊か感銘を受けた。

村上さんはまず、日本人の集団的な人間性を「無常」と「あきらめ」として定義したうえで、今回の東日本大震災を日本人がどのように受け止めたか、また今後どのようにして立ち上がっていくべきか、回顧と展望を一通り述べた後で、福島第一原発事故について、痛恨の言葉を述べている。

日本人は、あきらめのよさが転じて、ひどい目にあってもあまり怒ることがない。だが今回はそうであってはならない、と村上さんはいう。

「我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです」

なぜなら、我々日本人は原子爆弾を落とされた唯一の民族として、原子力被害の怖さ・悲惨さを誰よりも学習したはずなのに、その学習を活かすということをしなかった。その結果として今回の原発事故を引き起こしてしまった。つまりこの事故は、ほかの誰かによって引き起こされたわけではなく、「我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているの」だというのだ。

その背景には、効率という安っぽい価値に我々自身が振り回されていたという苦い現実がある、と村上さんはいう。こうして村上さんは、「我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です」と訴える。「それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはず」だからだ、ともいう。

確かに、今回の福島原発事故が、いい加減な効率優先思想から生み出された人災だったことは誰の目にも明らかだ。その上、想定外という言葉が安易に使われたことが物語っているように、効率を重視するあまり、安全については殆ど何も考えられていなかったというのも、疑いえない事実としてある。そこで村上さんは、「我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません」と結論付ける。

「災厄の犬」、という表現に接して筆者はドキッとした。日本語にこんな表現の仕方があったのかな、ととっさに思ったのだ。日本語において、犬という言葉があまりぱっとしない文脈で使われる傾向が強いことについては、筆者もかねてから感じていたところだ。たとえば「負け犬」、「犬畜生」、「権力の犬」といった具合だ。

しかし犬を災厄の元凶という意味であらわした言葉はなかったのではないか。「煩悩の犬」という言葉はある。それは災厄とは違う。

犬が災厄をもたらすというイメージは、筆者には思い浮かばない。

ともあれ日本人は、今回の巨大な災厄から深遠な学習をしなければならない。そうでなければ、人類の歴史上に不名誉な痕跡を残すことになる。これが村上さんと共通する筆者の気持ちだ。


    

  
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