日本語と日本文化


村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んで


「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」という奇妙なタイトルを持った村上春樹のこの小説は、ふたつの独立した物語が交互に進行するという体裁をとっている。「ハードボイルド・ワンダーランド」では、タイトル通りSF的な冒険が展開され、「世界の終わり」では、自分の影を失うことで心まで失っていく男の物語が進行していく。

この平行した二つの物語は、当初それぞれに独立した全く無関係なものとして提示されるが、物語の進行につれて、実は深いところでつながっているということが納得されるような形になっている。「世界の終わり」の主人公は、自分の前世としてハードボイルド・ワンダーランドの記憶を呼び覚まそうとし、「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公は、世界の終わりでの出来事を、未来からの啓示のようなものとして受け取る、といった具合だ。

実はこの二つの物語が展開する世界は、一人の人間の異なった次元のあり方を暗示しているのである。それも時間軸に沿って分断されたものというよりは、空間軸に沿って分断されたものとしてである。それは読者にとっては非常にわかりづらく設定されているのだが、簡単に言えば、一人の人間の心を表層の意識的な部分と真相の無意識的な部分に分け、それを別々の実体的な世界として広げたものが、それぞれの物語の世界なのだ。

だから、この作品はユングの心理学を応用しているのではないか、そんな印象を読者に与える。

「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうは、ある人間の普通の表層意識が捕らえた世界を描いたもので、「世界の終わり」のほうは、その人間の深層意識のなかで展開している世界を描いたものだ、そんな風に言い換えることができそうだ。ところがどうも、そう簡単ではないようだ。

この物語には不思議な能力を持った老人が出てくる。その老人が主人公の「わたし」にあるいたずらをする。わたしの大脳にある細工を施して、わたしの意識の構造を、表層の意識、その下部構造としての深層意識、そしてこの二つのほかに第三の意識のあり方を加えた三層の構造にしてしまう。

第一の表層意識と第二の深層意識とは、いわばユングの心理学がいうような関係を持っている。人間は深層意識の上に立って表層の意識の活動を展開しているわけだ。これに対して第三の意識である作られた意識体は、表層意識とも深層意識とも異なった、完全に人工的な構造体である。それはわたしの表層意識とは何らの係わりも持たない。むしろ持ってはならない。もしもわたしの表層意識が、この第三の意識体の影響を受けるようなことがあったら、わたしの行動は普通の人間としての、首尾一貫性をもてなくなるだろう。

ところが、老人はなにかの間違いで、わたしの表層意識とこの第三の意識体との間に、新しい回路を開いてしまうのだ。それはわたしが、いままでのように深層意識のあり方との間でレファレンスを行いながら、意識し、決定し、行動をするという構造が崩れ、全く異質の意識体との間でレファレンスを行いながら行動するようになることを意味する。

私にとって、深層意識の中に蓄えられた記憶や行動原則は全く意味を持たなくなり、人工的な原理に従って意識活動をするように強制される。だがそんなことは現実の世界では不可能なことだ。わたしの表層意識が第三の意識体に結びついた瞬間に、わたしの意識は混濁し、意識としての存在としてのわたしの存在は死滅することになるのだ。

このように村上春樹は、ユングの心理学を持ち込みながら、それを単純に応用するのではなく、第三の人工的な意識体という遊びの要素を持ち込むことで、小説の構造にヴィヴィッドな性格を付け加えているわけだ。

こうしたことを前提にしてもう一度この小説の構造を整理すると、「ハードボイルド・ワンダーランド」は、わたしという人間の表層意識の世界で起こっている出来事を描いている、一方「世界の終り」のほうは、老人によって人工的に作られた意識体の内実を描いているということになる。

この二つの世界は、一方は現実の、もう一方は非現実の、という限りで、交わりを持たないものだ。したがって本来は別々であるべきはずのものだ。ところが、老人によって、この二つの意識体が私の中で結合されたことによって、このふたつのものは何らかのかかわりを持たざるを得なくなる。だがそのかかわりは、表層意識と深層意識のそれとはまったく違った様相を呈するに違いない。

「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうは、私がいかにして老人によって新しい意識の回路を植え付けられ、そのことによって現実世界で死なねばならなくなったか、そのプロセスを描いている。「世界の終り」のほうは、この世界での意識のあり方としては死なねばならなくなったわたしが、架空の世界においては存在し続けているという事態を描いている。だから時間軸としては、「世界の終り」で起きていることは、わたしがこの世界で死んだあとの出来事だと言えなくもない。

しかしそうとばかりも言えない。「世界の終り」での出来事は、わたしが死ぬ前から存在していたのであり、わたしが死んだあとも存在している。しかしてそこで起こる出来事には、時間の概念で説明できないところがある。世界の終わりでは物事の継起に前後の要素はないのだ。その物事は永遠の層の中で起こるのだ。

だから世界の終りで出てくる動物たちの骨が、ワンダーランドで生きているわたしの手元に届くこともあれば、ワンダーランドで起こったことを、世界の終りの主人公が遠い記憶のかけらと感じることもあるのだ。

こんなふうに、この小説には普通の常識ではとても受け入れることのできないような部分が含まれている。いったい世界の終わりとは、何を意味しているのだろう。読者は最後までこうした疑問をなげかけつつ、ついに回答を得られないままでページを閉じなければならない。

すべての印象的な小説と同じく、この小説の結末部も印象的な言葉で終わっている。私の意識が第三の意識体に接合され、したがって私の意識が混濁していく過程を、村上は次のように書くのだ。

「誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降り続けるのだ。
「やがてその雨はぼんやりとした色の不透明なカーテンとなって私の意識を覆った。
「眠りがやってきたのだ。
「私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。ボブ・ディランは「激しい雨」を唄いつづけていた。」

これは考えられる限り最も滑稽な事態を、考えられる限り最も生真面目な言葉で語ったものだ。


太った娘:ハードボイルド・ワンダーランドの同伴者
図書館員の女の子:二つの世界をつなぐ女性
心と影:世界の終り


    

  
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