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劫初からの時間の中で:草野心平の詩を読む |
「第百階級」の一連の詩の中で、草野心平はカエルに自分を託してアナーキスティックな叫びを立てていた。それが「明日は天気だ」になると、カエルは一匹も出てこなくなり、叫び声は草野という人間の個人の声として響くようになる。その声にもアナーキスティックな調べは聞かれたが、カエルの声がかもし出すコスミックな感覚はずっと弱まり、生きる一人の人間のトリヴィアルな感情がまとわりつくようになる。 このコスモロジーとトリヴィアリズムとは、草野心平という詩人の二つの竜骨のようなものである。そのふたつの竜骨ががっちりと組み合わさって、ひとつの大きな船になったのが詩集「母岩」だと考えればよい。 母岩とは、宝石の元になる原石のことだ。その原石を自分の詩集の題名に選んだのにはどんなわけがあったのか、よくわからない。第一この詩集を草野は真剣に世に送り出そうと努力した形跡がない。出版したのは昭和11年のことだが、 戦時中は本屋に並べられることがなかった。本屋に出るようになったのは、戦後のことなのだ。 この詩集に収められた詩は、暗いタッチのものが多い。そこが「第百階級」のカエルたちの詩と違うところだ。だが詩想のほうは一段と深まりを増している。カエルたちのようにただ叫ぶだけではない。その叫びの中に、生きることの意味を込めている。 その生きることの意味には、一人の生きている人間が、ただひとりで生きているのではなく、宇宙とどこかでつながりあっているといった、コスモロジーの思想が含まれている。 この詩集の中で、筆者がもっとも好きなのは「劫初からの時間の中で」と題するものだ。劫初とは宇宙が始まった瞬間、詩人はこの詩を書いている時点においても、その時間につながって生きている。 劫初からの時間の中で。 その眩暈してしまひさうなながい時間の中のひとときを君とここにゐることの。 そして消えてしまふところの地団駄でとりもどせないひとときを。 無言に寒くゐることのあんまりのひどさから。 私は煙草に火をつけたのだが。 私は雪が降ってゐる。 自責の怒りよりもかなしく雪は私の内臓に降り。 その雪の中の火事を君は私の中にみてゐる。 みてゐることを解ることの騒がしい暴動を私は。 いや私の神は承認してくれない。 あれが大熊。 あれが龍。 あれがカシオペイアのW しゃべることは考へまいといふことの一つの方便で。 私は天を指し乍らその方便をつかったのであるが。 劫初からの時間の中のこのまたたきのひとときを。 夜も樹木もみんな不動の姿勢をとり。君と私。 ああ不意に。撃烈な音はやぶけ。 しかしながら賛成もないのである深い沈殿の。 向う。 写楽色の大天体はいま静かに移動してゐる。 草野の若い友人だった鳥見迅彦によれば、草野自身この詩を詩集の中でのただひとつの恋愛詩だといっていたそうだ。詩の中には男女の結びつきがあからさまに歌われているわけではないが、心の交流を通じての男女の結びつきは感じられる。だがこういう形で恋愛を歌う詩人は、あまり例がないだろう。 |
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