日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




桐野夏生の谷崎潤一郎観


桐野夏生は、学生時代に谷崎潤一郎に挑戦して挫折したそうだ。理由は色々あったようだが、谷崎の代表作といわれるものが大阪弁を多用していたことに馴染めなかったということのようだ。大阪弁に限らず、谷崎は関西の女に東京の女にはない潤いと色気を感じたと公言している。それが東京女の自分には気に入らなかった。そんな谷崎の小説を若い桐野は、「上方女にこまされた男」の書いたものと受け取って、反発を感じたということらしい。

ところが年をとってあらためて読んで見ると、違う印象を受けた。たしかに谷崎は依然上方女にこだわって見えたが、それは「上方女にこまされた」というよりは、わざわざ「こまされに行った」、実に雄々しい男として映ったというのである。そこで桐野は、「小説自体は変らなく存在するが、読み手の変貌につれて、小説世界は様相を変える」と言い、また「小説と読者とは縁で結ばれている。作家の真の姿というのは、読者が一生かけてやっとわかるものなのである」と納得するのである。

小生も、高校時代に谷崎を読んで挫折した経験がある。「刺青」などはすんなりと読めたが、「痴人の愛」には嫌悪感を覚え、読み進むことができなかった。潔癖気味の少年だった小生には、ああいう世界は自分には無縁どころか、有害なものとして、自分の品性が損なわれるような恐れを感じたのだった。ところが、還暦を過ぎて読んでみると、同じ小説世界が、たしかに道徳的には有害であるかもしれないが、文学世界としては実に豊穣で、自分の品性が損なわれるどころか、かえって感性が磨かれるように感じたものだ。たとえ還暦を過ぎても、人間の感性は衰えないものなのだ。

桐野が老年にして谷崎を読み漁り、とくに気づいたことは、谷崎が一貫して婚姻関係について書いているということだった。「痴人の愛」は、厳密には婚姻関係ではないが、男女が同棲しているという設定は擬似的ではあるにしても、一種の婚姻関係に違いない。そういう意味での婚姻関係、つまり男女のもつれあいという関係は、その後の谷崎の小説世界を彩り続け、それらの小説の中では、「痴人の愛」のナオミを原型とする悪女たちが活躍する。その悪女たちとの絡み合いを通して、「谷崎は男を高みに押し上げるのだ」と桐野は言っている。

以上のことを桐野は次のように言い換えている。「谷崎は一貫して貞女を書かなかった。むしろ、女の欲望を肯定し、女の欲望によって男が変貌する様を書いた。そのことによって、男としての谷崎は、より大きく深い存在となっていくのである」と。ということは、谷崎の小説はあくまでも男の視点から書かれたもので、そこには谷崎という作家のジェンダー性が色濃く投影されているということだろう。

男と女の関係、それもイモラルな関係を書くというのは、日本文学の伝統である。日本文学史上の偉大な作家たちは、ほとんど例外なく男女の(それもかなり不純な)関係をテーマにしている。漱石の代表的な小説はすべて姦通をテーマにしているし、荷風散人の小説も男と女の腐れ縁のようなものを描いている。荷風散人が模範にした徳川時代の小説は(「梅暦」をはじめ)みな遊郭を舞台にしているのであるし、近松の浄瑠璃がもっぱら心中を取り上げていたことはいうまでもない。ことほどさように、日本文学は男女のもつれが好きなのである。唯一例外なのは鴎外だ。鴎外の小説に出てくる女たちは、安寿姫にせよ渋江抽斎の妻五百にせよ、道徳的に完全で、実にけなげな性格である。これはおそらく、鴎外のマザーコンプレックスが働いたものだと思えるが、それは日本の文学の伝統では傍流であって、主流はあくまでも、男女のもつれた関係を書くことにあった。

なにしろ日本文学は、紫式部の時代から、男女のもつれあいを書き続けてきたのだ。そうしたありようは、西洋的な考えからすれば、軟弱とか没知性的とか、悪態をつかれかねないが、本居宣長が開き直って言ったように、女々しさこそは日本人の国民的な特性と言えなくもないのである。

もっとも谷崎の小説にはそうした女々しさは感じられない。むしろ男臭さを感じさせる。それは谷崎の小説世界があくまでも男の視点から書かれており、したがって女は男の視線の先にある対象に過ぎないからだ。女を男の視線の対象にする点では、川端康成も同様だが、川端には女を貶める視線がある。ところが谷崎の視線は、女をいとしいものとして、自分を高めてくれるすぐれた存在として、畏敬するような感じが込められている。

桐野に話を戻す。桐野は、谷崎の小説世界は、男女の内密な関係を描きながらも、その関係の外枠は以外に健全だったという。谷崎は常に一対の男と女、それも夫婦間におこる出来事を多く書いた。そうした男女の関係は、社会的に見て健全な関係であって、その関係内部でどのような出来事が繰り広げられるかは、とりあえず社会の関心の向くところではない。それはあくまでも当事者の間の私的な事柄である。その私的な事柄が社会全体の秩序に反することがない限り、それは社会と親和的であることができる。そういう関係をもっぱら書いたということは、谷崎の穏健性というか、保守性を物語っているのではないか。そこが、同じく男女のもつれた愛を書きながら、漱石や荷風散人と違うところだろう。



HOME日本文学覚書桐野夏生







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである