日本語と日本文化
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桐野夏生「東京島」


桐野夏生の小説「東京島」は、戦後実際に起きた無人島集団生活事件をもとにしたということだ。もっとも小説の中では、そのことには触れられていない。あくまでも、ある集団が無人島に孤立して生活するとどういうことになるか、というような、いわば抽象的な問題設定から描かれている。そういう意味では、サバイバル小説と言ってよい。サバイバル小説の古典としては、有名な「ロビンソン・クルーソー」の話がある。クルーソーは個人のサバイバルをテーマにしていたが、この小説では、集団のサバイバルがテーマだ。その集団は、当然出身国の文化を背負っているので、かれらのサバイバルには文化的な色彩がまとわりついている。だから勢い、文化批判的な内容に傾きがちである。

集団は三つに分かれる。日本人の集団、中国人の集団、フィリピン人の集団だ。まず、日本人の夫婦が無人島に流れてきて、そのあと二十数人の日本人の若者たちが加わる。それから数年後に、十一人の中国人がやってきて、日本人との間に文化的な軋轢が生まれる。フィリピン人は、七人の女性ダンサーからなる集団で、これもフィリピンらしい文化を背負っている。これら三つの集団が、それぞれ母国の文化を背負いながら、サバイバルゲームを繰り広げるというわけである。

小説に出てくる無人島は、太平洋に浮かぶ孤島ということになっている。桐野はそれを、腎臓をつぶしたような形といっているが、それは実在する島であるマリアナ諸島のアナタハン島を念頭に置いているのだろう。実際のアナタハン島は、文字通り腎臓をつぶしたような、変形的な楕円状を呈している。地図で見るかぎり、のっぺりした形状だが、小説の中では複雑な海岸線を持ち、しかもところどころ洞窟があったりして、結構バラエティに富んだ地形として描かれている。その島に、それぞれ違う国籍を背負った三つの集団が同居することになる。

そこでまず集団相互の文化的な相違が主なテーマになるのは、自然な勢いというものだろう。日本人の集団と中国人の集団との文化的な相違が最大のモチーフといってよい。その相違を単純化して言えば、日本人はまとまりがなく分派的なのに対して、中国人はリーダーを囲んで求心的だということになろう。

日本人のほうは、二十人以上の若い男たちと一人の中年女からなるが、かれらは基本的には分裂的・遠心的である。時にリーダーらしきものも現われるが、つねに一致団結しているわけではない。反目しあうというわけでもないが、強い絆で結びついてはいない。いくつかのグループに分かれて、めいめい勝手な生き方をしている。中には、どのグループにも入らず、孤立しているものもある。それは個人的な資質からそうなったというふうにも受け取れるが、集団から村八分になって排除されたという面も否定できない。集団の中から弱い者を選んで、それを差別・抑圧するというのは、日本文化に特徴的なことで、この小説はそうした日本人の文化的な特徴を、拡大鏡を見るような形で再現しているのである。それを読むと、日本人というのは、無人島の環境の中でも、差別と分断を持ち込まずには気がすまない集団だと思わせられる。

一方中国人のほうは、一人のリーダーのもとで一致団結する集団として描かれている。エマニュエル・トッドの家族類型論によれば、中国人の家族は、家長たる父親の権威が強大で、子どもたちは直接父親の権力に服属し、兄弟相互の関係は平等主義的だという。そうした家族像は国民性にも作用し、その結果中国社会は、強力なリーダーのもとで各成員が平等な立場で服属するという性格が強い。この小説はそうした中国人の文化的な特徴を強調して描いているわけである。

こういうわけで、日中の文化的な相違を小説のテーマにしているところがこの小説の最大の特徴といってもよい。その相違を背景にしながら、日本人社会の文化的な特徴を更に詳細に描き出していくというのが、この小説の基本的なコンセプトなのだろう。

小説に強い彩をもたらすのはたった一人の女性清子である。この小説は、その清子の視点を中心として、何人かの人物の視点を交差させながら物語を展開していく。清子はじめ、登場人物たちの最大の関心事は、島から脱出し、文明的な生き方に戻ることである。結果的に脱出に成功するのは、被差別者のワタナベと清子ら数人の人間(中国人とフィリピン人の一部)で、大多数の人間はそのまま無人島に取り残される。だが、フィリピン人女性が加わったために、彼女らが新しい家族の形成を可能にし、島の人口は増える。その増えた人口をもとに、島では新しい国づくりが営まれるというわけなのである。そこは「ロビンソン・クルーソー」にはない新しい発想である。ロビンソンは島を脱出して文明生活に戻ったわけだが、この小説の登場人物の大部分は、島に残り続けて、かれらなりのユートピアを作るのである。

さて、小説の語り口はかなり念が入っている。色々な人物の視点を交差させながら、話を展開していくのは、フォークナー以来の現代文学の常套手段だ。この小説では清子という中年女の視点が中核となる。彼女は夫と二人で船旅をしている最中遭難して無人島に流れ着いたということになっている。やがて日本人の若者集団がやってくると、どういう事情からか夫は死んでしまい、遺された彼女は若者たちのセックス相手を勤める。彼女は若者たちの共有財産なのだ。だが特定の男と結婚することもある。夫と死に別れたあと、彼女は三人の男と正式に結婚するのだ。その彼女が、中国人の誘いに乗って、俄づくりのボートで島を脱出しようとする。そのボートの中で、中国人のリーダーから散々強姦される。その結果彼女は妊娠し、双子を生むことになるのだ。

つぎに重要な役割をつとめるのは、ワタナベという男だ。かれは他の連中から孤立して、一人で暮らしている。他の連中から相手にされないことはたいして苦にならないが、清子が自分とだけセックスしたがらないことに怒っている。かれは偶然島にやってきた日本人に救出されるのだが、その際に、他に人間が島にいることを隠していた。自分を差別する連中が許せなかったからだ。そのワタナベは、清子の夫の残した日記を盗み読みする。その日記には、島の若者たちがおもしろおかしく描かれていた。

小説のハイライトは、フィリピン人女性たちが、壊れたボートを修理して、それに乗って島から脱出するいきさつを描いた部分だ。小説の本筋では、脱出がどのようになったのか、触れられてはいない。十数年後になった時点で、二人の手記という形で明らかにされるのだ。その手記を書いたのは、清子の生んだ双子の姉弟だった。弟のほうは島に残って、フィリピン女性のリーダーに育てられたということになっている。その手記の中で、島に残された人々が自分らの理想社会を建設する動きが紹介されるわけだ。

一方姉のほうは、無事日本にたどり着いて母親清子に育てられたということになっている。彼女の手記を通じて、ボートで島から脱出しようとする計画が、なんとか成功したことが明らかにされる。だがそれは、島に残った人々の知るところではない。また、清子らにしても、知らせてやろうという意思もないのである。

こういう具合に、集団でのサバイバルゲームを描きながら、そこに日本文化批判を香辛料的に付け加えるといった体裁の、よく出来た小説というべきであろう。



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