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グロテスク:桐野夏生を読む


桐野夏生には、実在した人物や実際に起きた事件をヒントにして作品を構成する傾向がある。「グロテスク」は、1997年に起きた「東電OL殺人事件」をヒントにしたようだ。だが、桐野自身は、「この作品はフィクションであり、実在する個人、団体とはいっさい関係ありません」と断っている。そのへんは、実在した作家林芙美子を本名のまま登場させた「ナニカアル」とは異なった扱い方になっている。じっさいこの事件は、いまだ解決しておらず、したがって容疑者として逮捕されたネパール人は冤罪だということになっている。そんな事件であるから、それをあたかも事実であったように書くことは、いくら桐野でもできなかっただろう。にもかかわらず、この事件を小説のヒントとして使ったのはどういうわけか。おそらく桐野はこの事件に、人間の業のようなものを感じたのではないか。桐野がこの小説で描いているのは、人間の業なのである。

業というのはもともと仏教用語であり、前世の因果がこの世に影響を及ぼすといった事態を現している。自分の意思ではどうにもならないという意味合いだろう。たしかに人間の運命というものは、個人の意思を超えたところがある。この小説に出てくる人間たちはみな、そうした個人の意思を超えた、どうにもならないような強制に駆り立てられながら生きているように見える。なかでも、小説のヒントを提供したOLは、どうして売春をするようになったか、合理的な理由がない。つきものにかられるようにして売春生活にはまったとしかいいようがない。また、もう一人売春をする女性が出てくるが、彼女は売春することにまったく違和感を抱かない。楽しんで売春をしているところがある。そのもう一人の女性の姉にあたるのが、この小説の主要な語り手なのだが、その語り手も最後は売春にはまる。彼女の場合には金を稼ぐ必要があったという事情が一応の理由になっているが、いとも簡単に売春に踏み切る。まるでそれが自分に与えられた運命、つまり業だといわんばかりに。

というわけでこの小説は、業としての売春をテーマにしている。おそらく作者の桐野は、実在したOLの売春に強烈なインパクトを受けて、売春について切り込んで見たいと思ったのだろう。そこでOLのほかに別の女性を登場させ、彼女らの売春人生を描くことで、売春というものの人類学的な意義について掘り下げて考えようとしたのかもしれない。その売春に、小説の主要な語り手をからませることで、サド侯爵の語りを想起させるような異常な緊張感を小説に持たせることに成功した。

じっさいこの小説は、異常といえるような緊張感に満ちており、読み出すとページから目が離せなくなるし、読み終わったあとでは深い疲労感を抱かせられる。桐野の小説には、緊張感を強いるものが多いようだが、この作品はとりわけ強い緊張感を与える。

桐野の小説には、多くの人物が出てきて、それぞれが多様な人生模様を繰り広げてくれる。この小説にも多くの人物が出てきて、それぞれ多彩な生き方を見せてくれる。それについては語り手自身が、小説の最後の章において、人物配置とそれらの行動の意味について語っている。こんな具合だ。

「世にも美しいわたしの妹、ユリコの悲劇的な人生。そして日本にも実はしっかりと存在する階級社会を具現化した名門、Q女子高での日々。そこの同級生だった佐藤和恵に起きたセンセーショナルな事件。同じくQ女子高で巡りあったミツルと木島高志の栄光と挫折。異国から来て、奇しくもユリコと和恵に遭遇してしまったチャンの悪党人生」

それらの人々の人生を語り手は読者に理解してほしいと言うのだが、なぜ理解して欲しいのか、その理由は、自分でもよくわからないと言うのである。

小説の登場人物のうち、佐藤和恵という女性が例のOLを暗示し、チャンという中国人が彼女を殺したというふうな設定だ。実際にはネパール人が容疑者として逮捕され、有罪の判決を受けたのだが、その後再審が行われ冤罪が確定している。だから事件の真相はいまだにわからないのであるが、この小説は架空の中国人を登場させて、かれにOLの殺人を実行させているわけだ。この中国人はまた、語り手の妹ユリコも殺害したことになっている。その性格には不可解なものがあり、言動も虚偽に満ちているので、典型的な悪党に見える。その点ではいささか作り物めいている。

チャンを除く主要な登場人物はみな、Q学園の出身ということになっている。その学園を作者は日本の格差社会の縮図というふうに描いているのであるが、文脈からして慶応のことだとわかる。その慶応が、俗物の巣窟のように描かれているので、慶応関係者には不快に映るだろうと思う。そこはエリートの社交場であるとともに、すさまじい差別社会でもある。すこしでも弱みを持っている生徒は、徹底的にいじめられるのだ。日本の学校は、だいたいいじめの修羅場という特徴を持っているものだが、慶応はその典型というわけである。この小説を読むと、中途半端な身分の者は決して近づかないほうが身のためだと思わされる。

語り手がQ女子高に入学したのは、家族とくに妹のユリコと一緒に暮らすのが嫌だったからだ。語り手の両親は、父親の母国であるスイスに移住するのだが、そのさいに語り手だけは日本に残って、祖父とともにP区(文脈からして江戸川区と思われる)にある公団住宅で暮しながら、Q学園に通うのだ。ところがそのQ学園に、あんなに嫌がっていた妹のユリコが入学してくるのである。そのユリコは、ジョンソンという外国人の家で暮らすのだが、そのジョンソンはロリコンらしく、ユリコを性的なおもちゃにする。ユリコはその被害者となり、あげくは妊娠までさせられるのだが、そのことを恨むわけではない。彼女は、男は嫌いなのだが、セックスは好きになる。それは、ジョンソンに抱かれることで、性感帯を開発されたためだというふうに伝わってくる。このユリコの生き方が、女である姉の視点と、ユリコ自身の手記という形で語られる。そこは、同じ少女性愛をテーマにしていても、ロリータと違うところだ。ロリータは男の視点から描かれ、つまり犯す立場から描かれているわけだが、この小説の中のユリコは、本人を含めて、女の視点から描かれているわけだ。ロリータの場合には、男の視点に犯す意識がともなっていたが、この小説の中のユリコには、犯されるという視点はない。彼女はセックスが好きなので、誰とでも寝ることをいとわないのだ。そんなユリコを、姉の語り手は天性の娼婦と毒づいているが、自分自身も進んで娼婦になっていくのである。

ユリコと仲良くなった木島高志は、いかにも日本の旦那階級の息子といった風情を感じさせる。かれは同性愛者であり、ユリコに対して性的な感情は持たない。かれはユリコのために女衒の役割を果たし、せっせとユリコに売春をさせながら、そのウワマエをはねるのである。なんでも金儲けの種にするという、したたかな生き方が皮肉っぽく描かれている。もっともかれは、自分には責任のないユリコの息子をひきとって面倒を見たりするところもある。もっともそれは、好意からというよりも、少年愛の現われだと匂わされているのだが。

ほかに、ミツルという女性が出てくる。彼女はもっぱら語り手の視点から描かれるのであるが、かなりスーパーウーマン的な要素をもっており、東大の医学部に入ったりもする。だが、へんな宗教団体に入ったために人生を台無しにする。その宗教団体がオウム真理教をモデルにしていることは、文脈から伝わってくる。その事件にかかわったために、彼女は6年間服役したことになっているのだが、オウム真理教の一連の事件が起きたのは1995年のことだから、(2003年に書かれた)この小説とは時間的に附合するわけである。

こんな具合に、同時代の日本の社会情勢を背景にしながら、特異な業を背負った人間像を立体的に描いている。立体的という点では、リアルな迫力を感じさせるが、人物の行動とか、出来事の展開とかいったものには、かなり空想的なものを感じさせる。その空想的な部分が、読者にとって鼻持ちならない感じを抱かせるところもある。読者のなかには、バカにされていると感じる者もいるだろう。


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