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桐野夏生を読む |
桐野夏生は、現代日本の作家としては、もっとも多くの読者を持つ人気作家だそうだ。かつての松本清張を、今の日本でしかも女性という形で再現したというようなイメージだ。清張はハードボイルドなタッチで、社会的な視線を強く感じさせるミステリー作品を数多く書いた。桐野の場合も、やはりハードボイルドなイメージが強く、しかも社会的な視点もある。その社会的な視線は、単に社会の一隅での矛盾に向けられるのではなく、トータルとしての日本社会に向けられる。だから桐野の作品は実に迫力がある。桐野の作品に出てくる主人公たちは、単身で日本全体を相手に戦っているという壮絶なイメージに彩られている。世界の文学史上においても、そうした壮絶さは稀有なのではないか。 松本清張がそうだったように、桐野夏生もいわゆる大衆文学のジャンルに分類されている。清張は「在る『小倉日記伝』」で芥川賞作家として出発したのだったが、桐野の場合には「柔らかな頬」が直木賞を受賞し、したがってスタートから大衆文学の位置付けだった。桐野自身も、少女小説や漫画の原作から出発したこともあって、自分には芥川賞より直木賞のほうが相応しいと思っていたようだ。その直木賞の受賞もすっきりとはいかなかった。彼女自身は「OUT」で受賞するつもりだったが、できなかった。その理由を彼女自身が分析している。この作品の持つ「反社会性」が、日本のエンタメ市場に相応しくないと判断されたのだろうというのである。 「OUT」は、桐野が満を持して書いた作品であり、それなりの自信を持っていたようだ。この作品には、桐野の社会的な視線が鋭く現われており、後の桐野作品を貫くテーマが揃って出てくる。それは、弱い立場の人間にとって日本という国が生きにくい社会であり、とりわけ女性にとってそうなのだが、それにもかかわらず、生きていくほかはないといった諦念が作品全体を支配している。そういったイメージが後の桐野の作世界を底辺で規定しつづけるのである。 「OUT」を読むと、書き出しからしばらくのあいだは、文章がかなり生硬で素人っぽいという印象を受ける。それがクライマックスに近づくに従って、文章に凝集力とか躍動感が加わるようになる。その躍動感が頂点に達したところで、小説全体がクライマックスを迎えるという具合に作られている。そこに読者は桐野の構想力を強く感じる。ともあれ、桐野はいわゆる天才型の作家ではなく、努力を重ねることで小説技法を高めていったといえるようである。彼女の努力はすさまじく、夥しい数の質の高い作品を生み出した。 直木賞をもらった「やわらかな頬」は、謎だらけの少女失踪事件をテーマにした作品だ。これにはモデルとなる事件はなく、桐野の創造の産物ということらしい。全く同じような事件が、この小説よりずっとあとになって起きた。まるでこの小説を手本にしながら、誰かが巧みに少女を連れ去ったとしか思えない。桐野自身にはそういう意識はまったくないはずだが、世の中には、小説の中の出来事を現実において模倣しようと考える人間もいるらしい。この作品はまた、桐野の小説技法の成熟ぶりを感じさせる。桐野は自分の小説技法を「複数視点三人称」と説明しているが、それは単一の人間の視点からではなく、複数の人間の視点を絡ませながら、しかも三人称で客観描写につとめるというものだ。その技法がこの小説では遺憾なく発揮されている。また、文体そのものにも、迫力が付け加わった。桐野の文体は、基本的には写実的で、現実をそのままにリアルに描写することに長けている。桐野の小説世界は、現実への異議申し立てという側面が強いので、リアルな文体はその目的によく応じることが出来るのである。 余談を言うと、桐野夏生は最初、「柔らかな頬」と題した作品を、直木賞を目当てにして書いたという。ところが編集者から強い批判を受けて、その構想を放棄し、まったく新たな気持で「OUT」を書いた。その「OUT」に手ごたえを感じたので、あらためて「柔らかな頬」を書く気になったが、小説の内容は全く別のものになったという。 桐野夏生には一方で、現実に起きた事件とか実在の人物をモデルにした作品もある。「グロテスク」はいわゆる「東電OL殺人事件」に取材したものだし、「ナニカアル」は女流人気作家林芙美子の戦時中の行動をモチーフにしたものだ。「東電」のほうには、桐野による創作の部分がかなり混じっていると思われるが、「ナニカアル」は、林芙美子を実名で登場させ、しかも小説中の出来事はすべて実際に起きたことだと思わせるように書かれている。それらの内容には、林芙美子の人格を貶めるような要素も多々あるので、死んだ林はともかく、林の関係者は不愉快になるはずだ。そうした関係者の意向を全く無視する形で、桐野は林芙美子という人間の全体像に迫ろうとしている。いったいどんなつもりでそんなことをしたのか、ちょっとわかりかねるところもあるくらいだ。そのほか、連合赤軍事件に取材した「夜の谷を行く」といった作品もある。 以上の作品を通じて、桐野夏生の文学的な名声は次第にあがっていった。人気の点ではすでに一流作家と言ってよかったのだが、それに文学者としての名声が多少は追いつくようになった。決定的だったのは「日没」の刊行だった。この小説はディストピアトしての日本社会を描いており、その意味では伝統的なディストピア小説の延長にあるものだが、そこには桐野なりの工夫もあって、独特の世界を読者に向って提示したものだった。この作品は、読者層や文壇を超えて、全社会的な反響を巻き起こした。お堅いイメージで知られる老舗のアカデミー雑誌「思想」までが特集を組んだほどである。それによって桐野は、単に大衆作家としてではなく、現代社会に向って警鐘を鳴らす思想家としても認知された。 「日没」という作品は、いきなり書かれたわけではなく、伏線というか、準備運動のようなものが先行していた。その代表的なものは「奴隷小説」と「路上のX」である。「奴隷小説」は、奴隷的境遇にある人々をめぐる短編小説集で、いまの日本だけが対象ではなく、さまざまな事情で奴隷的な境遇に陥ってしまった人々の焦燥感のようなものを描いている。だから厳密な意味でのディストピア小説とは言えないが、奴隷的境遇をモチーフにしている点では、互いに通じるものがある。一方「路上のX」は、家族に捨てられてホームレスの境遇に陥った少女たちの物語である。いまの日本で、少女がホームレスの境遇に陥ることは、破滅的な事態だ。そうした少女たちにまともな未来はない。彼女らは生きるためにあらゆることを強いられるし、そんな彼女らを金儲けの手段にしようと手ぐすね引いている連中によってボロボロにされてしまう。そんな彼女らにとっては、日本という国全体が牢獄のようなものであり、地獄であって、要するに究極のディストピアである。 桐野夏生は「路上のX」で確立したディストピア感覚をフルに動員して、現代的なディストピア小説である「日没」を書いたということだろう。この小説は、ディストピアトしての現代日本社会を徹底的に解剖し、その非人間性を告発している。だが並のディストピア小説とは違ったところもある。並のディストピア小説は絶望の中で結末を迎えるケースがほとんどだが、この小説の結末には一抹の希望を感じることができる。そこは桐野のヒューマニストとしての一面が現われたというべきなのだろう。 このサイトでは、そんな桐野夏生の代表的な作品を取り上げ、鑑賞しながら適宜、解説・批評を加えたい。 OUT:桐野夏生を読む 崩壊の美学:桐野夏生「OUT」 柔らかな頬:桐野夏生 ロテスク:桐野夏生を読む 小説「グロテスク」のポリフォニックな構成 桐野夏生「東京島」 女神記:桐野夏生を読む ナニカアル:桐野夏生を読む 奴隷小説:桐野夏生を読む 夜の谷を行く:桐野夏生を読む デンジャラス:桐野夏生を読む 路上のX:桐野夏生を読む 日没:桐野夏生を読む 白蛇経異端審問:桐野夏生のエッセー集 桐野夏生の谷崎潤一郎観 |
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