北上山地の春:宮沢賢治「春と修羅」第二集
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「春と修羅」第二集のなかの北上山地を主題にした一連の作品の中に、「北上山地の春」と題するものがふたつある。ひとつはここに紹介するもので、「浮世絵」という添え書きが付されており、もうひとつは単に「北上山地の春」とある。このうち筆者が座右に置いている筑摩文庫版の全集には後者が本体部分に納められ、前者は異稿の部分に納められている。
どちらも日が高くなってからたどりついた丘の麓の集落での様子を描いたものだ。春の明るい日差しにつつまれた、静かな集落での人々の日常の営みが生き生きと描写されている。先行する詩にあった愛とか祈りの感情は影を潜め、賢治はただ一途に自然の中に生きる人々の素朴な生活に溶け込んでいる。
この詩は「浮世絵」という添え書きがあるように、視覚的なイメージに満ちた作品だ。イメージが目の前を展開していくのは、まるで映画をみているようだ。賢治の詩の中でも、もっとも感性にあふれた詩のひとつである。
一、
かれ草もかげらふもぐらぐらに燃え
雲がつぎつぎ青く綾を織るなかを
女たちは黄や橙のかつぎによそひ
しめって黒い厩肥をになって
たのしくめぐるくいちれつ丘をのぼります
かたくりの花もその葉の斑もゆらゆら
いま女たちは黄金のゴールを梢につけた
年経た栗のそのコバルトの陰影にあつまり
消え残りの鈴木春信の銀の雪から
燃える頬やうなじをひやしてゐます
春の日が燦燦と降り、草は青々と茂る。そんなのどかな景色の中を、女たちが黄色や橙に彩ったかつぎをかぶって黒い厩肥を担い、一列になって丘を登っていく。
かたくりの花も葉も光に輝いている。女たちが栗の木のコバルト色の日陰で休み、晴信が描いた銀色の雪の名残水で、燃えるような頬やうなじを冷やしている。健康な労働の情景だ。
二、
風の透明な楔型文字は
暗く巨きなくるみの枝に来て鳴らし
また鳥も来て軋ってゐますと
わかものたちは華奢に息熱い純血種(サラーブレッド)に
水いろや紺の羅紗を着せて
やなぎは蜜の花を噴き
笹やいぬがやのかゞやく中を
泥灰岩の稜を噛むおぼろな雪融の流れを遡り
にぎやかな光の市場
その上流の種馬検査所に連れて行きます
風が透明な楔形を描く。どんな有様なのだろう。若者たちがサラブレッドにおめかしをさせて、光が降り注ぐ中を、川の上流のほうへと導いていく。彼らが向かう先は種馬検査所。実は賢治がこの夜間行をした目的のひとつは、新たに開設されたばかりの種馬検査所を見学することだったらしいのだ。
三、
いそがしい四十雀のむれや
また裸木の蒼い条影
水ばせうの青じろい花
ぬるんだ湯気の泥の上には
ひきがへるがつるんだまゝで這ひ
風は青ぞらで鳴り
自然にカンデラーブルになった白樺があって
その梢には二人のこどもが山刀を鳴らして
巨きな枝を切らうとします
小さなこどもらは黄の芝原に円陣をつくり
日のなかに烏を見やうとすれば
ステップ住民の春のまなざしをして
赤いかつぎの少女も枯草に座ってゐます
雑木林の中に入ると、四十雀が忙しく飛び交い、裸の木の影が地面を青く染めている。塗るんだどろの上では、ヒキガエルがつるんだまま這い回り、風が青空を吹き抜ける。
自然にカンデラーブルになった白樺の木に、二人の子供が近づいて枝を切ろうとしている。カンデラーブルとはシャンデリアから着想した賢治特有の言い方だ。枝を水平に伸ばした様子をさすらしい。
黄色い芝生には男の子たちが円陣をつくって座り、その付近には女の子たちが赤いかつぎをかぶって枯草に座っている。
以上何のこともない、自然とその中で生きる人々の素朴な動きを、飾りなく歌い上げている。だがそのことがこの詩に、わざとらしさを感じさせない生の息吹をもたらしている。
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