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雪国:川端康成と官能の遊び


川端康成は「雪国」を執筆し始めてから最終的な完成にいたるまでに実に10年以上をかけている。世界の文学史上、ひとつの作品に長い年月を要した例はほかにもあるが、それらは多くの場合、一部の書き直しであったり、余計な部分の削除であったりする場合が多い。ところがこの小説の場合には、幾度か書き足しをしながら、雪だるまのほうに膨れ上がって、長編小説になったという経緯があるようだ。こんな形で小説を構成していく作家はそう多くはいないのではないか。

川端は戦後の代表作「山の音」にも長い年月をかけているが、そちらは、バラバラの形で発表したいくつかの短い小説を、あとでつなぎ合わせて一片の長編小説に仕立て上げたということなので、「雪国」とは多少違った成り立ちをもっているが、それにしても、完成までに数年を要している。

以上のことから我々がまず感じることと言えば、川端はひとつの整然とした構想に基づいてまとまりのある物語を書こうという意図は持たなかったのだろうということだ。事前に用意した確固たる構想にしたがって物語を展開していくのではなく、いくつかの短い物語の間に関連性を見つけて、それをもとに事後的に物語に仕立てあげる、そういうタイプの創作態度を、川端はとっているかのようである。

こんなわけであるから、この小説には一本通った筋がないといってよい。筋がないということは、物語ではないということだ。小説は必ずしも物語である必要はないが、物語性と言うのは、小説の醍醐味の大部分をなすといってもよいから、物語の不在を補うには、余程強力な要素がなければ小説としておさまらぬ。川端のこの小説の場合にその要素とは、ひとつには人間の官能性の礼賛であり、もう一つには研ぎ澄ました文章の迫力であるといえるのではないか。

まず官能性ということについて。この小説は、雪国の温泉街を舞台に、一旅行客と地元の芸者との痴情の絡み合いを描いたものだ。この二人は何となくひっつきあい、なかなか別れがたくなってずるずると付き合い続けるのだが、何故二人が結びついたかについては、川端は何も語っていないし、また二人がずるずるとひっつきあっていることについてどのような心理的背景があるのかについても、川端はほとんど語らない。語っているのは、彼らが肉体的に結びつきあっているということであり、その結びつきに当面は満足しているということだけだ。満足といっても、心から満足しているわけでもないらしい。というのは、男の方では次第に面倒くさくなっていく様子がみえるし、女の方でも男と添え遂げたいという気持はない。彼らはただ、今の一瞬を楽しく過ごせればよいのだ。

ということはつまり、この小説で描かれている人間関係というのは、普通の人間同士に見られるような心のこもった、あるいはややこしい、関係ではない、ということだ。ではどういう関係か、などと野暮な問いかけをすることは無益だ。この小説の中で描かれているのは、徹頭徹尾官能的な、つまり単純な関係なのだ。男が女に求めるのは、官能的な肉体の満足なのだし、女が男の官能を満足させてやるのは職業上のサービスに過ぎない。第一この小説は、温泉街にぶらりとやってきた旅の男が、セックスがしたくなって芸者を求めるシーンから始まる。この小説の中の男は、最初から最後まで、女の肉体だけを目当てにして、だらだらと生き続けているのである。この男にとって、この世に生きていることの意義は、女とセックスをすることだけなのである。それ以外のことを男は考えない。この男にはセックスの他になすべきことは何もないのだ。

この小説は、基本的には男の視線に立って書かれているが、その視線の先にあるのは性欲のはけ口としての女である。男の視点に立って作者が述べるのは、セックスパートナーとしての女の艶めかしさである。艶めかしさには一定の精神性がないではないが、殆どは肉体が発散するものである。したがって作者が男に代って語る言葉には、殆ど精神性らしいものがない。精神性のないところには緻密な心理描写も必要ない。というわけで、この小説は近代小説の最も大きな要素である心理描写が、徹底的に欠けている。そのかわり、人間の肉体を含めた物質の描写であふれている。この小説を読んだものは、そのイメージの豊かさに圧倒されると思うが、そのイメージの殆どは視覚的なものである。川端の描写は視覚的な緻密さに富んでいて、読みながらそこで展開されている情景がありありと浮かんでくるようである。

ここに一例を紹介しよう。小説の出だしの所で、男が汽車の中で或る女の姿に目を留め、その女の顔が汽車の窓に映っているところを描写している部分だ。汽車の窓を鏡にたとえながら、次のように書く。

「鏡の底には夕景色が流れてゐて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのやうに動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかはりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが溶け合ひながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた」

こういう文章を読まされると、読者はその場の光景を恰も眼前に見ているようなリアルな感覚を持たされる。こんな表現が次から次へと続いていく。ということは、我々は小説を読みながら、映画をみているような気にもさせられるわけである。

男女の痴情の絡み合いを男の視線から描いたものとしては、谷崎潤一郎の「痴人の愛」があるが、「雪国」と「痴人の愛」とではかなりな相違がある。雪国は先述の通り徹底的に物質的なイメージを与える作品だが、「知人の愛」は精神性の影を引きずっている。痴人の愛の主人公は痴人なりに精神性を感じさせるのである。ということは、谷崎は近代小説の王道である心理描写にこだわっていて、いたるところで主人公の内面を暴露させる工夫をしている。ところが川端にとって、人間の内面などは余計なものに過ぎない。人間は物質であるだけでも、十分に中身がある。精神など表に出さなくとも、小説は十分に成り立ちうる。

また、谷崎の場合には、主人公である痴人の視点からのみ対象世界が描かれる。ナオミという女は存在感のある女だが、自分から小説世界にしゃしゃり出ることはない。あくまでも痴人の視線の先にとらえられるに過ぎない。ところが「雪国」の駒子は、時によって自分から小説世界にしゃしゃり出てくる。そして主人公に対して自分の存在を強烈に主張する。そうしたケースでは、主人公の視線は相対化されて、駒子の視線との間に、戯れあいのようなものが生じる。つまり小説の語り方が単眼的ではなく、複眼的になる。同じ事象をそれぞれ異なった視線が異なった具合にとらえるのである。そこにこの小説の持つ魅力の秘密があるだろう。緻密な心理描写がない代わりに、登場人物がそれぞれの視点から見た対象世界のありようを表現する。そうすることで、対象世界が広がりを増すとともに、深みを帯びるようにもなる。この小説の独特の雰囲気は、この視線の複眼性ということに根差しているといえる。

次いで、文章の迫力について。川端の文章が視覚的イメージに富んでいることは上述のとおりだが、そのほかにも様々な感覚的イメージが動員されている。例えば触覚。男は駒子の顔が思い出せなくなっても、自分の左手の中指が覚えているという。その指で駒子の肉体の内部をまさぐったのでもあろう。その際の感覚が強烈に残っていて、それだけでも体内をまさぐった女の印象がよみがえってくるというわけだろう。また、匂いや肉体のぬくもりと言った感覚も動員される。酔った駒子の発散する匂いや、駒子のしなやかな体躯のぬくもりが、男の欲望を刺激する。人間というものは、必ずしも物質だけでできているわけでもないが、物質性だけでも十分に存在感がある。そしてその物質的な存在感は感覚によってのみとらえられうる。川端がもっともこだわるのは、その感覚なのだ。


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