日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




荷風と谷崎:新藤兼人の永井荷風論


新藤兼人が荷風の日記に接したのは「罹災日録」が最初だったそうだ。もともと荷風の日記に大した興味を持っていたわけではなかったが、これを読んで偏奇館焼亡やその後の放浪、また折に触れて吐露する戦争についての考え方などを通じて、荷風という人間に非常な興味を覚えるようになり、それがもとで彼の日記断腸亭日乗全巻を繰り返し読むようなマニアになってしまった。ただ単にマニアの読者たるにとどまらず、断腸亭日乗をもとにして一本の映画を作るまでに至った。

断腸亭日乗の中でも戦災にかかわる記事がもっとも迫力に富むとは、筆者などの感じたところでもある。荷風は日頃戦争を憎み、軍部を憎み、勝利して軍部の専横を見るよりは敗戦したほうがましだなどと過激な感情を日記に吐露していたが、やがて自分自身が戦災を蒙り、命からがら放浪の旅に出る。そして放浪しながら人間としてのぎりぎりの感情を、抑制の利いた筆づかいで記録していく。そのあたりがなんともすさまじい迫力を伴って読む者の心を圧倒するのである。新藤もまたそうした荷風の生きざまに大いに共感を覚えたのだろう。新藤の断腸亭日乗論は、まず荷風の戦災日記を論じるところから始まる。

昭和20年3月9日夜半のいわゆる東京大空襲によって偏奇館を焼き出された荷風は、従弟の大島五艘を頼って身を寄せたりするが、やがて東京に居ることに危険を感じ、友人の菅原明朗夫妻と共に岡山へと逃避する。それまでに書き溜めた断腸亭日乗29巻は五艘に預けた。五艘はそれを御殿場にある友人の邸に保存した。五艘自身の家もやがて消失するから、断腸亭日乗は危機一髪で助かったわけである。

岡山に着いた荷風は、倉敷から伯備線で入ったところにある勝山というところに、谷崎潤一郎が疎開していることを知って、はがきで挨拶をしたところ、谷崎から返事と共に色々な品物が贈られてきた。

<七月廿七日。晴。午前岡山駅に赴き谷崎君勝山より贈られし小包を受取る。帰り来りて開き見るに、鋏、小刀、印肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、其他あり。感涙禁じ難し。晩間理髪。>

荷風は日記にこう記して谷崎の厚情に感謝している。

8月6日には広島に原爆が落とされ、岡山の人々は戦々恐々になった。岡山にも落されるかもしれないと、恐れたのである。東京を焼け出され、また行く先々でも空襲の恐怖に慄いていた荷風は、思い切って勝山の谷崎を訪ねることにした。荷風は安全な勝山で、できたら疎開生活を続けたいと思ったのである。

谷崎潤一郎は、荷風を師として生涯礼を尽くした。そんな谷崎の厚情に荷風は一時甘えようとしたのだろう。着の身着のままといった状態で単身列車で勝山に向かった。それが8月13日のことである。しかし荷風は翌々日の15日に、早くも岡山に帰ってきてしまう。いくら非常の時とはいえ、谷崎に甘えることができなかったのだと新藤は言っている。

8月13日から15日にかけての3日間の日記は、断腸亭日乗のひとつのピークだと新藤は評価している。その期間谷崎も日記をつけていた。新藤はこの二人の日記を並べながら、彼らの個性の差を読み取っている。

13日の荷風の日記は、岡山駅を出発して勝山に至るまでの車内の見聞が主なものだ。荷風は列車に揺られながら、窓外の景色や人々の様子を艶のある文章で書いている。勝山に着くとその足で谷崎を訪ね、松子夫人と初めて会う。松子夫人は荷風のためになにかと世話を焼いてくれた。荷風はとりあえず、谷崎の用意してくれた旅館に泊まることにした。

その日の谷崎の日記は、荷風が訪ねてきたことを記している。

<八月十三日、晴。本日より田舎の盂蘭盆なり。午前中永井氏より来書、切符入手次第明日にも来訪すべしとのことなり。ついで午後一時頃荷風先生見ゆ。今朝九時過の汽車にて新見廻りにて来れりとの事なり。カバンと風呂敷包みとを振分にして担ぎ余が先日送りたる籠を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤革の半靴を穿きたり。焼け出されてこれが全財産とのことなり。>

谷崎は荷風のやつれきった姿に注目しているのである。昔日の紳士らしい面影はない。服装も粗末なら、表情もさえなかったに違いない。

一方荷風を迎えた谷崎の方は、それなりに快適な暮らしをしている。谷崎は5万円ほど用意して疎開したそうだが、当時の5万円は大金である。千円あれば100坪の土地に8畳6畳4畳半の家が建つような時代だ。谷崎はその金で、いろいろ闇物資を手に入れたりして、生活に不自由することはなかった。

面白いことに、谷崎は疎開先の勝山の人々にはあまりよく思われていなかった、と新藤はいう。彼等から直に聴いたらしい。来て早々鮎を一年分買い占めたりしたそうだから、その振る舞いが横柄だと思われたのかもしれない。

荷風にしても、別に金に困っていたわけではなかったのである。彼は銀行通帳をいつも手元に持っていて、その通帳には莫大な額の預金があったはずなのだ。にもかかわらず荷風は、その金を下ろして、それで入用なものを買おうという気持を起こさなかった。金をもっているくせに、貧乏人のような風采で歩き回ることが気にならなかったのである。そこが荷風の面白いところだ。

14日は二人で街を散策したり、食事を共にしたりしている。荷風は谷崎に勝山での疎開を相談してもいる。それに対して谷崎はできる限りの協力をしましょうと答えている。

しかし荷風は結局勝山での疎開を取りやめることにする。谷崎の生活ぶりを見た荷風は、自分と谷崎との境遇があまりにも違うことにショックを受け、また谷崎が疎開中も小説の執筆を続けていることに驚いた。そんな谷崎にとって自分が荷物になることを遠慮したのだろうと、新藤はいう。荷風にはそんな一面があるというのだ。

15日の午前、荷風は列車で岡山に向かう。その荷風を見送った谷崎は、正午頃に天皇の放送があったことを知るが、詳しいことまでは分からない。そうこうするうち、噂などで日本の無条件降伏の情報が入ってくる。

<・・・二階にて荷風氏の「ひとりごと」の原稿を読みゐたるに家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉へるものらし。皆半信半疑なりしが3時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も3時のラヂオを聞きて涙滂沱たり・・・>

一方荷風の方は、岡山の寄宿先に帰ってきたところで、日本の敗戦を知らされる。

<・・・休み休み三門の寓舎に帰る。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ>

谷崎が一家そろって涙滂沱だったのに対して、荷風は<恰も好し>の一言である。このことに関して新藤は次のように述べている。

<その一日の、同じ時間に、荷風、谷崎という日本を代表する優れた文学者が同じことを見るのに、角度が違っていたということは、非常に興味あることだと思います。わたしはここまで読んで、改めて「断腸亭日乗」へはいっていきました>


HOME日本文学覚書永井荷風次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである