日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




荷風の女性遍歴その一


断腸亭日乗昭和十一年一月三十日の条に、帰朝以来馴染を重ねたる女の一覧表なるものが載せられている。これは明治四十一年に数年にわたる欧米滞在から帰国したあと、この日までに荷風が馴染を重ねた女十六人について簡単なコメントを付したもので、女の数は十六人にのぼる。この数だけでも荷風がいかに女好きだったかがわかるというものだ。荷風はここに記された以外にも多くの女たちと情交を重ね、その中から創作のエネルギーを汲み取った。なにしろ荷風が生涯に書いた文章のうち小説の部類に入るものはことごとく男女の情交をテーマにしている。荷風はその材料やら構想をそれらの女たちとの触れ合いから汲み出した。したがって女への執念が薄れるとともに、荷風の創作意欲も失われたのである。

この十六人のうち五人目の米田みよまでは、日記が書き始められる大正六年以前の付き合いなので、四人目の内田八重以外には詳しいことはわからない。この一覧表中のコメントが主な情報の出所である。そこでそのコメントを参照しながら荷風とこれらの女たちとの情交を追ってみたい。

一番目の鈴木かつは、明治四十一年というからヨーロッパからの帰朝後すぐ馴染になったのだろう。その頃荷風は親友の井上亜々とともに柳橋や新橋で遊び歩いていた。鈴木かつは小勝という名で柳橋の芸者だった。どれほどの付き合いぶりだったか詳しいことを荷風は書いていないのでわからないが、「知り合ひになりて後間もなく請負師の妾となり、向島曳舟通りに囲われゐたり」とあるから、せっかく捕まえたいい女をトンビにさらわれてしまったというわけであろう。

二番目の蔵田よしは、浜町不動新町の私娼だった。明治四十二年の正月から十一月ころまで馴染めたり」とあるから、小勝に振られた直後に手に入れたらしい。雑文「桑中喜語」には彼女をモデルにした女が出てくると言うが、そこには次のように書かれている。

「明治四十一、二年の頃、浜町二丁目十三番地俚俗不動新道といふあたりに置屋と称へて私娼を蓄ふる家十四、五軒にも及びたり。界隈の小待合より溝板づたひに女中の呼びに来るを待ち、女ども束髪に黒縮緬の羽織、また丸髷に大嶋の小袖といふやうな風俗にて座敷へ行く。その中には身なり人柄、昼中見てもまんざらでもなき者ありし故誰いふとなく高等とは言ひなしたり。あくまで素人らしく見せるが高等の得手なれば、女中の仕度して下へ行くまでは座敷の隅に小さくなつて顔も得上げず、話しかけても返事さへ気まりわるくて口の中といふ風なり。始め処女の如きはやがて脱兎の終を示す謎とやいふべき」

こういう文章を読むと、荷風が女と馴染むのはもっぱら創作のためだったと思われぬでもない。なおこの蔵田よしは大蔵省官吏の女だったと荷風は記している。

三番目の吉野こうは、芸名を富松といって木挽町で知り合い、互いに「こう命」「壮吉命」と刺青をしあうほどの仲になったが、女のほうが金持ちに落札されることで関係が途絶えた。その関係は明治四十二年夏より翌年九月頃まで続いたとある。「この女のことは随筆冬の蠅に書きたればここに贅せず」とあるので、随筆集「冬の蠅」を紐解くと、「きのふの淵」という小文の中で触れている。

「富松は三代つづいて浅草に生まれた江戸っ子であった。その後心易くなるにつれ私はたびたび芸者屋まで尋ねにいったこともあったが、火鉢の縁に頬杖をつき襦袢の襟に顎を埋めている様な、萎れた姿を一たびも見た事がなかった。あくる年、四十三年の秋、富松は落籍せられて赤坂新町に小料理屋を出したが、四十五年にして再び芸者になり、初めは赤坂、次は麻布、終りに新橋に立戻ってから一二年の後、肺を病んで死んだ。それは大正六年の夏の事であった。わたくしは一時全く消息を知らなかったのであるが、或日清元のさらひで赤坂の者から一伍一什のはなしを聞き、又その墓が谷中三崎町の玉蓮寺にあることをも知り、寺をたずねて香花と共に、
  昼顔の蔓もかしくとよまれけり
の一句を手向けた」

四番目の内田八重は、荷風にとって特別の女であった。荷風が生涯に実質的に結婚したのはこの女性だけで、色々な事情で別れた後も、ずっと気にかけていた。そんな女性は十三番目に挙げている関根歌とこの八重以外にはない。

八重は新橋巴屋の芸者で、芸名を八重次と言った。初めて出会ったのは明治四十三年の中頃で、富松との関係がまだ続いている最中のことだったらしい。富松とは相手に生涯忠誠を誓う刺青までした仲であるに関わらず、それが切れる前から荷風は他の女に手を出したわけである。この八重次を荷風はかなり気に入ったらしく、父親に押し付けられた形の妻ヨネと離縁をしたあげくに正式な結婚もしている。その結婚式には荷風の母恒も出席して二人の門出を祝っている。

その八重次と別れたのは荷風の激しい女遊びが原因だったようだ。結婚式をあげてからわずか半年後の大正四年二月二十三日に離婚した。しかし離婚後もあいかわらず付き合っている。荷風はそれを焼棒杭に火が付いたと言っているが、一人の女にこんなに執着したのは八重次意外にはいない。荷風は昭和十二年に母親が危篤になったときに、わざわざ八重次を麻布の偏奇館に呼び寄せている。

この八重次のことをめぐっては末弟の威三郎と深刻な相克があったらしく、荷風は母の通夜が威三郎の家で営まれていることを理由に赴いていない。そのあたりには人間としての荷風の異様さを感じさせられるところだ。


HOME日本文学覚書永井荷風次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである