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あじさゐ:荷風の芸者観


「あじさゐ」は三十枚ほどの小編ではあるが、なかなかに味わい深い。いわゆる賤業婦に生涯こだわりを持ち続けた荷風散人が、賤業婦の花ともいうべき芸者について、自分なりの趣味・主張を開陳して見せたもので、荷風の芸者観がもっともあからさまな形で表現された作品である。

この小説に出てくる芸者は、二十歳で殺されたことになっているので、ちょっと前までは未成年として遇されていた年ごろである。そんな若い身空で大の男どもを弄ぶ、その大胆な生き方を、荷風散人は小説の主人公たる元芸人、いまは芸者屋の亭主をしているという男の口を通して語らせている。芸者を見る男の目は、半ばは情欲に曇り、半ばは分別にほだされているのだが、なにしろ見られるところの女の生きが良いと来ているので、読者の目にはかなり強烈な印象を伴って映る。

まず芸者の容貌を荷風散人は次のように描写する。「睫毛の長い一重まぶたの目は愛くるしく、色の白い細面のどこか淋しい顔立ち。それにまた撫肩で頸が長いのを人一倍衣文をつくった着物のきこなしで、いかにもしなやかに、繊細く見える身体つき。それに始終俯向き加減に伏し目になって、あまり口数もきかず、どこかまた座敷なれないような風だから、いかにも内輪なおとなしい女としか思われません」

ところがこの女が、「十四五の時から淫奔で、親の家を飛び出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生まれつき水商売に向いている女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしようという考えもなく、欲もなければ世間への見得もなく、ただ愚図愚図と月日を送っている、どこかたりないところのある女」として紹介される。

つまり荷風はこの女を、自分の意志から賤業婦になった、ある種不敵な女として描いているわけである。徳川時代以来、賤業婦たちは自分の意志からではなく、親に売り飛ばされたり、人に騙されたりして身を崩したということにされるのが相場で、荷風自身も、吉原の芸者たちをそのような目で見ていた。そこにははかない運命に翻弄される女達への同情の眼差しを感じることができるのだが、この小説の中の芸者は、そんなか弱い存在ではなく、愚図は愚図なりに、自分の意志で生きている。こういった大胆な女のあり方は、この小説の芸者だけではなく、「腕くらべ」以降の荷風の小説に出てくる女たちに共通している。ということは、荷風は私生活の場では個人的な感慨として、芸者に代表される賤業婦をある種の社会的の犠牲者として見ていたのに対して、小説の世界では、自分の意志でその道に踏み込んだ大胆な女として描いているわけである。

この小説のなかの芸者は、最後にはもと情夫の新内流しによって殺されてしまうのだが、その理由というのも、女が自分みずからに招き寄せたということになっている。この芸者には、この小説の語り手の他に、新内流しの色男がいるのであるが、その色男たちを尻目に、自分の抱え主と懇ろになって、抱え主の女房を追い出したばかりか、その後釜に座ろうという大胆さを発揮する。彼女が殺されるのは、そうした振舞いが情夫の新内流しを怒らせたからなのである。もしも新内流しに殺されなければ、自分がお祭り佐七になったかもしれぬ、つまり殺しただろう、と語り手は言っている。

要するにこの女は、「ただ愚図愚図と月日を送っている、どこかたりないところのある女」などでは到底なく、自分の運命を自分で切り開こうという意思を持っている自立した女なのである。こうした種類の女は、やはり荷風の小説の女たちに共通した性格であって、彼女らはそれぞれの立場に応じて、しっかりと計算しながら生きている。その計算に多少甘いところがあるのは、これは無教養な賤業婦としてある程度致し方のないことだ。

ところで、その女について語る男の語り口は、芸者屋の亭主というにしては、なかなか道学者めいたところがある。その道学趣味はおそらく荷風自身の趣味を反映しているのだろう。荷風は生涯無類の女好きとして膨大な数の女と付き合い、彼女らの所業をつぶさに観察しては、それを小説の文章に生かしたわけであるが、その際の女の見方に、先ほど述べたような分裂した意識が作用しているように見える。つまり、一方では賤業婦たちを可哀そうな女として見る目と、もう一方では男たちを騙してたくましく生きている自立した女と見る目とが交差している。交際する視点というのは、物事を相対的に見がちなものだから、どうしても相手を突き放したような見方になりがちだ。それが他人の目には道学趣味と映るわけである。

小説の題名は「あじさゐ」とあるが、アジサイへの言及は全くないし、またアジサイをほのめかすような描写もない。アジサイと言えば梅雨時の風物だが、この小説には季節感というものが全く感じられないのである。荷風の小説にしては珍しいというべきだろう。女を描くのに急で、季節感は腋へ追いやられたといった風情である。


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