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永井荷風「つゆのあとさき」を読む


荷風散人が昭和六年に小説「つゆのあとさき」を発表したとき、谷崎潤一郎が早速読後感を寄せて、ユニークな荷風論を展開して見せた。谷崎が言うには、荷風には洋風の審美主義と和風の骨董趣味とが混在しており、自分としては審美主義の方が好きなのであるが、荷風のこの新作は骨董主義へ逃げ込んだものとして、自分としてはあまり高くは評価できないと評した。これは批評上の一見識と言えなくもないが、そこにはやはり谷崎なりの美意識が絡んでいるとも言えるので、読者の中には、荷風のバタくさい審美主義よりいさぎよい江戸趣味(骨董趣味の別名だ)をより好む者もいよう。筆者もそうした荷風の江戸趣味を好む者の一人だ。そう言う点でこの小説などは、非常に筆者の感性に合っていると言えるのだが、この小説にはそれを超えたところもある。谷崎は同じ評論の中で、荷風の小説、とりわけこの新作の中の登場人物には、人間の血が流れていないように感じると言っているのだが、筆者などはその正反対に、この小説の登場人物、とりわけ主人公の女給君江に強い人間性を感じるのだ。

もっとも、人間性とは言っても、かなり特異な人間性であるには違いない。主人公の君江は先にも言ったとおりキャバレーの女給である。キャバレーの女給と言うのは、昭和に入って新しく登場した賤業婦の一種だ。それまで日本の賤業婦の代表は芸者で、それより程度の低いものとしていわゆる赤線青線の女達がいたわけだが、昭和に入るとキャバレーの女給が新たな賤業婦の形態として加わった。芸者や赤線の女たちの多くが、親に売り飛ばされたり、小さい頃から芸を仕込まれたり、つまり自分の意思ではなく他人の意思で賤業婦の道を歩み始めたものがほとんどだったのに対して、キャバレーの女給は自分の意思で賤業婦になったものがほとんどだった。彼女らにとっては、賤業婦といえども世の中を渡ってゆくうえでの立派な職業なのだ。とはいえ自分の職業に誇りをもっているわけではない。ただ惰性で生きているだけである。その惰性の部分が谷崎の目にはでくの坊のように映ったのかもしれないが、女のみならず男も含めて惰性ではなく自分の意思に従って立派に生きている日本人など存在しないと言うのが荷風散人の割切りだったようだ。もともと存在しないものを追い求めるよりも、存在しているものに幾分かの存在意義を認めてやるのが作家の甲斐性ではないか、というのが荷風散人の基本的なスタンスのようである。

そんなわけでこの小説の女主人公君江にたいする荷風の向き合い方と言うのはかなり屈折したものだ。一方では君江の天真爛漫な気性や若々しい色気を未練たっぷりに描きながら、同じ筆で心の中がうつろで何も自覚することのないでくの坊のような女として突き放した描き方もしている。まず君江の器量については次のような書きぶりだ。「容貌はまず十人並で、これと目に立つところはない。額は丸く、眉も薄く目も細く、横から見ると随分しゃくれた中低の顔であるが、富士額の生え際が鬘をつけたように鮮やかで、下唇の出た口元に言われぬ愛嬌があって、物言う時歯並の好い、瓢の種のような歯の間から、舌の先を動かすのが一際愛くるしく見られた」。随分とマニアックな描写だが、こういう描写は普段から女の顔を熟視していなければなかなかできるものではない。

君江はこの愛くるしさを武器にして男を手玉に取ってきたというふうに描かれる。十七歳で身を崩してから二十歳になるまでの四年間に、身をゆだねた男は数えられないほどだ。しかも君江は男と遊ぶのが生きがいのような、生来の賤業婦のような女だ。そのことに関して荷風は次のように書いている。「君江のような、生まれながらにして女子の羞恥と貞操の概念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだたくさんあるに違いない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。ああいう女が東京の市街に現われて来たのも、これを要するに時代の空気からだと思えば時代の変遷ほど驚くべきものはない」

こう言って荷風散人は東京の街に現れた新しい女の生態をあたかも生理解剖するようなタッチで描いてゆくわけである。君江をめぐって小説が展開してゆくのは、君江に惚れた男が君江から足蹴にされたことに腹をたてて復讐してやろうと思いついたことに始まる。女に腹を立てて復讐を考えるなどは、ケチな男のすることであるが、荷風散人の小説にはこうしたケチな男たちが出てきて狂言回しのような役割を果たすケースが多い。「腕くらべ」などはその典型的な例だったわけだが、この「つゆのあとさき」では、ケチな男のケチな了見が物語を引っ張ってゆくので、読まされている身としては、君江が可愛く描かれているだけに、拍子抜けするような感じを味わされる。

君江に腹を立てた男というのは、小説家を標榜する清岡というやつで、この男は自分に対して強い矜持をもっているわりに君江がそれを尊重せず、並みの男として自分を遇しているばかりか、自分以外に男をこしらえて、自分をコケにしているのはけしからぬ、ここは是非ひどい目に合わせてやらねばならぬ、と思い込むのである。ところが君江はちょっとやそっとのことではへこたれない、ついては肉体に強い衝撃を与えてやることで、身を以て痛みを感じさせてやろうと男の風上にも置けないことを考える。そのあげく君江は、大島の羽織から長じゅばんにかけて一文字に切り裂かれたり、猫の死骸を自分の部屋の押し入れに投げ込まれたり、内腿に大きなほくろがあるという自分以外にはごく少数の男しか知らない秘密を街巷新聞に暴露されたりする。そういったことは君江を気味悪がらせるが、決定的な打撃を与えるわけではない。そこでどうにかしてひどい目に合わせてやりたいと執念深く考えているうちに、君江は全く別の事情から他の男にひどい目に合わされるのである。そんな目に合わされたからと言って、君江が生き方を変えたかと言うとそこは明らかではない。小説はそこまで描かないうちに終わってしまうからである。

君江に復讐を誓う清岡という男はかなり類型的に描かれている。男のくせに女への復讐心に凝り固まっているのはどう見ても尋常ではない。そんな男が現実に存在するのか、存在するとして果たしてここまで卑小になれるのか、どうにも判然としない役回りだから、類型的に陥るのだろうと思われる。類型的という点では、物語とは直接かかわりのないところで、清岡の内縁の妻が描かれるのだが、その描き方もかなり類型的である。近代的な考え方を持っていて自我が確立している女が、つまらぬ男に愛想をつかして自分から去ってゆくのがこの女の役回りだが、荷風がなぜそんな女を登場させたか。ひとつには君江のような女との対比を通じて日本に当時現われつつあった新しい女のパターンを描き分けたかったのかもしれなしい、またこの女を通じてその亭主清岡の、つまりは日本の男の卑小さを浮かび上がらせたかったのかもしれない。荷風は女に同情的な部分男には厳しいところがあるのだが、その厳しさをこういう場面で発揮したということなのだろうか。荷風の面白いところは、清岡の内縁の妻が、亭主持ちの身でありながら、清岡と不倫の恋をしたというふうに設定していることだ。そのわりにこの二人には、血の通った人間性を感じることがない。そこは谷崎の言うでくの坊を見ているような感じだ。

面白いと言えばもうひとつ、君江が熱を出して臥床したことに関して、強姦された痛手ではないかと噂されるのを恐れる場面が出てくる。体を売り物にしている女が強姦されるというのは、なによりも理屈に合わないだけでなく、職業上のプライドにもかかわるというように、荷風は描いている。そこのところが面白い。


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