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永井荷風「雪解」を読む


「雪解」は小品ながらよくできた作品だ。雪解け水の点滴の音の描写で始まり、わずか二日間の出来事を淡々と綴ったものだが、その短い時間の中に人間の生涯が凝縮されている。その生涯と言うのは、主人公の初老の男にとっては敗残の一生であり、その男が二階を間借りしている出方の女房にとっては偽りの生涯であったらしく、また初老の男が数年ぶりに再会した実の娘にとっては、これから始まるべき一生がすでに清算されてしまっているかのように見えると言った具合なのである。

兼太郎という初老の男が実の娘と再会するのは、築地の路地にある銭湯の中でだった。兼太郎は築地本願寺付近の陋巷に面した小さな家の二階に間借りしているのだが、朝湯を浴びに銭湯に出かけたところで、思いがけなくも実の娘と出会ったのだった。その娘というのは、まだ幼いころに、父親を捨てた母親に引き取られ、それ以来一度も会ったことがなかったのだった。いまでは十八にもなり、色気もついてきている。その娘が何故銭湯にいたのか、その事情はおいおい明かされる。

兼太郎は、娘のお照と再会した嬉しさに、自分のところへ訪ねてくるよう持ち掛ける。するとその日の夕方お照が訪ねてくる。お照は年のわりに世慣れた風情に見えた。昨夜の飲み残しの徳利を見つけてそれを父親に給仕してくれるが、その手つきなどは「どうやら扱いなれたところ」が見える。

親子差し向かいの対話のなかから、娘の今までの境遇が語られる。母親は父と別れたあと別の男と再婚し、自分と弟はおじいさんに預けられたが、自分はおじいさんに反抗して家を出たこと、そしてカフェーの女給になっていることなどを娘は語る。父親のほうは、すっかり色気のついた娘をまじまじと眺めるので、娘から気味悪がられる。しかし娘はそれに懲りないで、次の日も酒の四合瓶を抱えて訪ねてくるのである。

二回目は土産物を持参した効果もあって、家主の女房とすっかり仲良くなり、一階の座敷で一緒に酒を飲んだりする。その折の娘の様子を見た兼太郎は感極まった様子でこんなことを言う。「お照、お前がおいらの娘でなくって、もしかこれが色女だったら生命も何もいらないな。昔だったら丹さんという役回りだぜ。ははははは」。しかしお照は父親のこんな戯言を、「のん気ねえ。ほんとにお父さんは」と言って軽く聞き流す。

そこへ借間の家の亭主が帰ってくる。この亭主は芝居小屋のために出方をやっているのだが、芝居の世界の住人とは見えない地味な男だ。一方女房のほうは昔は待合の女中をしていたというので多少は気の利いたところがある。そんなわけで、不釣り合いの夫婦なのである。それを察知したお照は、後で父親に向かって、「ねえ、お父さん。あのおかみさんは、わたし御亭主さんに惚れていないと思うのよ」と言う。そのことは兼太郎のほうも分かっている。この女房が亭主の留守の合間に間夫を家のなかに入れているのを、これまで何度も見て来たのだ。

それを見せつけられるについて思い出されるのは、自分のかつての妾がやはり男をこしらえたあげくに、落ち目になった自分をいともあっさりと捨てたことだ。それにつけても兼太郎は女の薄情さに我慢がならなくなることがある。自分自身の女房、お照の母親に当たる女は、別に間夫をしたわけではないが、これもあっさりと自分を捨てて、あげくは別の男と一緒になった。これもまた薄情といえば薄情だ。そんなわけで兼太郎は、女というものに対して複雑な感情を持っている。というのも、女というものはやはり可愛いところもあるからだ。

その可愛さを兼太郎は、ほかでもない自分自身の娘に感じてしまうのだ。その娘が男をこしらえたらしい。そしてもしもその男と駆け落ちすることになったら、お父さんの下宿に匿ってくれなどと言われ、返事に困ったりもする。そこへ当の男が現れて娘を拉致し去る。その二人の後姿を見て兼太郎は何とも言えない気持ちに陥る。自分だけ取り残されたような気持なのだ。そこで兼太郎は、「呆気にとられて、寒月の光に若い男女が互いに手を取り肩を擦れ合して行くその後姿と地に曳くその影とを見送った」のである。

二人の後姿を見送っているうちに兼太郎は、昔自分の妾を他の男にとられた時のことを思い出す。その時もやはり妾が男と一緒に柳橋を渡って行く後姿を見送ったものだった。それを思いだすにつけても兼太郎は、自分の身の上のあさましさを思い知るのである。そのあげくに兼太郎は、二階の部屋に舞い戻ると冷え切った鉄瓶の水を飲みながら夜具を引き下ろして寝てしまうのだ。

こんなわけでこの小説は、自分自身の娘に女を感じてしまった情けない父親の痴情のようなものを描いている。その娘がカフェーの女給をしているというところが、荷風のそれまでの小説とは違うところだ。それまでの荷風の小説の世界に出てくる女は基本的には芸者だった。それがカフェーの女給へと変化したのは、やはり時代の変化を反映している。いわゆる賤業婦に生涯こだわった荷風としては、その賤業婦のあり方にも時代の変化があるということを鋭く見抜き、それを作品の世界にも反映させていたわけである。


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