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井伏鱒二「本日休診」を読む |
井伏鱒二は、疎開先の福山から昭和22年の夏に東京荻窪の家に戻り、本格的な執筆活動を開始する。戦後最初の傑作といえる作品は「本日休診」だろう。これは、昭和24年8月から雑誌に連載し、翌昭和25年6月に刊行された。テーマは外科医の日常である。外科医の目から見た、戦後の混乱期を生きる人々を描いている。戦後間もないこの時代は、まだ堅固な生活基盤ができていない人が多く、人々は貧しさにうちひしがれていた。医療の面でいえば、全国民を対象とした医療保険制度が確立するのは昭和58年のことであり、戦後間もないこの時代には、医療費の支払いに苦しむ人が多かった。この小説に出てくる人物には、患者として世話になったにかかわらず、治療費を踏み倒したり、治療費が支払えないことを理由に診療を中止し、そのため病状が悪化して死ぬものもある。そんな人々を相手に、主人公の外科医はなるべく金にこだわらず、人間的な良心を大事にしようとするのだ。そんなわけで、多少俗っぽい雰囲気がしないでもない。だが、井伏一流のユーモア感覚を駆使して、戦後の混乱期を生きる人々のある種のたくましさを描き出している。 舞台は東京蒲田駅近くの診療所。産婦人科と内科の医師がいて、ほかに外科の医師がいる。その外科医師である主人公は、病院の経営を息子にゆだね、自分は顧問格のつもりだが、実際にはひっきりなしにやってくる患者の対応に余念がない。患者の中には外科の手術を必要とするものや、難産の妊婦などがいる。患者はみな貧しく、治療費の支払いを気にしている。金がないから安心して治療を受けることができないのだ。戦後間もないころの日本には、そうした人たちが大勢いて、医者の中にはそうした患者を鷹揚に受け入れるものもいれば、診療を拒絶するものもいただろう。 面白いことに、主人公の老医師八春先生は警察医を兼ねている。だから警察の案件が結構ある。小説の中での八春先生は、ポリスが連れてきた一女性の診察から仕事を始めるのである。ポリスが言うには、その女性は悪いやつに強姦されたとのことで、強姦を裏付ける診断書を書いてくれという。八春先生が診察しようとすると、女性は激しく拒む。羞恥心のためである。先生は性病の感染を恐れているのだが、女性は先生の忠告に従わない。感染予防のために用意した薬品類も使おうとしない。そのためその女性は、後に性病(淋病だろう)にかかる羽目になる。 こういう不幸な境遇の患者たちがたくさん出てくる。先生は、なるべく患者たちに人間らしい振舞いをしたいと考えている。とにかく治療を優先して、金のことは二の次だ。結果的に不払いのまま逃げられることが多い。しかし中には、その不払いを気にして、金に余裕ができたときに払いに来るものもいる。たとえば、十年以上も前に、子どもを出産した女が、八春先生にその子の名付け親になってもらったあげく、金を払わないで退院した。そんなことをすっかり忘れていた先生のところに、十数年たったころに女がやってきて、金を払いたいという。ただし、十数年前に請求された額である。その間にすさまじいインフレがあったから、十数年前の請求額は、いまの貨幣価値からすればただみたいなものだ。それでも先生は、その金を気持ちよく受け取るのである。 先生は人から頼まれればどんなところにも往診する。一度船に住んでいる人から往診を頼まれた。六郷川の河口近くに船をもやい、その中で暮らしている人がいるのである。名古屋を舞台にした映画「泥の河」は、船で暮らす母子を描いたものだが、そんな船上生活者が、戦後間もないころの東京にも結構いたようである。 ポリスが強姦犯人をつかまえたが、犯人は大したおとがめもなく釈放された。強姦された女は悠子といって、いまはある母子と一緒に住んでいる。十数年前に出産した例の女とその息子である。かれらがやっかいな患者をつれてくる。長屋の隣の部屋に住んでいる女が産気づいているというのだ。その長屋へ出かけて行って患者を診ると、胎児が過熟児で母体は狭骨盤であった。助けるためには帝王切開をせねばならない。しかし亭主はそれを拒絶する。金のことを心配しているのだ。帝王切開ができなければ、母親か子どもかどちらか一方に絞って助けるほかはない。結局母親の命を優先して、胎児には穿顱術を施すことにした。強制流産である。 八春先生の次の大きな仕事は死産の処置であった。大きな腹を抱えた女を診察すると、胎児が死んでいるのがわかった。生命反応がまったくないのだ。この妊婦も悠子たちが連れてきたのだった。手術すると死胎は腐乱して臭気芬々としていた。手術を施した女性はお町さんという名前だった。そのお町さんも金のことを非常に気にして、治療を途中できりあげ、家に帰ってしまった。先生が引き留めてもきかない。しかしそれが命取りになった。小説の末尾は彼女に不幸な運命が見舞ったことをほのめかしているのである。 先生は、金のことで命を落とすほど馬鹿なことはないと思っている。だが、世の中には、自分の命より金の心配を優先するような人もいる。そういう人たちに囲まれながら、せめて自分に忠実に生きようとする八春先生の姿に、我々読者は井伏のある種のヒューマニズムを感じるのである。 |
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