日本語と日本文化


坂口安吾の堕落論


坂口安吾が「堕落論」の中で、議論の素材として取り上げたのは、日本の伝統的な価値観というべきものだ。それを坂口は、日本婦人の貞操、特攻隊に象徴される皇軍兵士の愛国心、そして天皇制への敬意で代表させたわけであるが、そのいずれについても、茶化すような言い方をして、批判というか、断罪をしている。これに対して当時の日本人は拍手喝采を以て答えた。坂口といえば、敗戦前には風変わりな小説を書くマイナーな作家ぐらいにしか受け止められていなかったのだが、この堕落論によって、いっぱしの文明批評家として時代の寵児になったのである。

坂口が堕落論を発表したのは1946年の㋁のことだ。その頃の日本は、敗戦のショックから立ち直れず、混沌とした状況が支配していた。そんな時代状況にあって、人々は敗戦の意味を考えるよりも、その日をどうやって生き延びるかに精神を集中していたし、時たま敗戦の意義を考えることはあっても、それは自分の責任で引き起こしたものではなく、一部の無能な指導者たちの無責任な行動の結果なのだとして、自分自身は被害者であるかのように装っていた。また実際そのように感じていたのだと思う。そういう時代状況の中で、坂口の日本人批判が「堕落論」という形で現れたわけだ。それを読んだ人々は、そこに自分の意見を代弁してくれているものを見て、拍手喝さいしたのだと思う。

坂口がこの小文の中で書いたようなことを戦前・戦時中に書いて発表したとしたら、間違いなく官憲に引っ張られたであろう。それほど過激な意見なのだが、敗戦後の混乱の中では、それが過激にはうつらず、むしろ一般国民の本音を語っているものの如くに受け取られたわけだ。

その過激な意見の一つが、日本婦人の貞操を疑うものだ。戦後大量の戦争未亡人が発生するに及んで、彼女らの多くが新たな配偶者や、あるいは経済的な支援者を求めるようになった。これは貞婦二夫にまみえずを理想とする伝統的な道徳に反するわけだが、坂口は、そんな道徳は上っ面なもので、人間性に根差したものではない、と喝破した。だいたいそんな道徳がまことしやかに語られること自体、日本婦人が本質的には淫乱な証拠なのであって、その婦人の淫乱ぶりを抑え込むために、貞婦二夫にまみえずなどというふざけた道徳が作られた、というのが坂口の言い分だ。

特攻隊に象徴される皇軍兵士たちの愛国心にしても、道徳的にはそれを武士道で根拠づけたわけだが、その武士道なるものも、武士たちの利己心を押さえつけるための方便だったというのが坂口の言い分である。これらに比べれば、天皇制のほうはやや複雑な事情があるが、それも基本的には政治的な打算に裏付けられたもので、道徳とか正義とかいうものは、天皇制に箔をつけるために被された衣装にすぎない、と坂口は主張する。

坂口は言う。「特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そしてあるいは天皇制もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない」

特攻隊や天皇制はともかく、日本婦人の貞操について坂口がかくも懐疑的なのには多少の違和感がある。たしかに戦後大量に出現したパンパンなどを見れば、日本婦人の貞操もここまで堕落したか、と嘆かないではいられないむきもあろうが、彼女らの大部分は何も好きこのんでそんなことをしていたわけではなく、その日を生き延びるのに必死だったと考えてやるのがフェアな態度だと思う。勝海舟がかつて西洋人に向かって誇ったように、日本婦人のほとんどは間男をしないし、貞操ということには潔癖だったといってよい。その彼女たちを、敗戦後に出現した異常な事態をもとに、十把一絡げにして浮気な連中だと断罪するのは、あまりにも飛躍した言い方というべきだ。

天皇制については、同年の十二月に発表した「続堕落論」のなかで、踏み込んだ議論を展開している。それを単純化していうと、「天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真実に実在したためしはなかった」というものである。天皇制というのは、天皇が自ら支配する体制ではなく、一部の勢力が天皇を玉としてかつぎ、その権威を利用して自分たちの政治的な利害を貫徹するための道具であり続けたという見方である。昭和の時代にもそのシステムは貫徹し、日本の支配層が天皇を担いで無謀な戦争を引き起こしたわけで、天皇自身はそれに深くはかかわっていなかった、というわけである。

この歴史認識には多少の違和感があるが、天皇制を天皇による専制とせずに、天皇を一部の政治勢力が利用して、自分たちの政治的な野心を貫徹する道具として用いたとする見方には首肯できるものがある。そのへんは丸山昌男が論理的に分析してみせたところを、坂口は直感的に述べたということだろうと思う。

正続の堕落論を通じて坂口が言いたかったことは、道徳だの権威だのというものへの嫌悪感だったように思う。坂口は言う。「生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限また永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかありえない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない」

かように坂口は、人間の堕落を論じながら、人間はそんなに堕落できるものではないと締めくくっているわけである。無論この言い方には両義的なものであるわけだが。





  
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