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二音連結と七五調:日本語を語る


丸谷才一と山崎正和の対談「日本語の21世紀のために」を読んでいたら、面白い話題が出て来た。2000年にも及ぶ日本語の歴史を通じて、日本語の変わらぬアイデンティティともいえるものがあるとすれば、それは何か、という問題意識を山崎が投げかけ、それについて、ふたりが興味深い議論をしているのである。

山崎はまず、つぎのようにいって、日本語というものは意外と変化してきていることを確認する。「まずね、『万葉』の日本語は表記法が全く現在とは違うわけで、これを読める人は専門家しかいません。文法構造も変わりました。たとえば係り結びなどは現代語にはありません。格助詞も昔の日本語にはありませんでした。単語もずいぶんかわりました。『万葉』からみれば、単語は恐らく五割は変っているでしょう」

つまり、日本語というのは、万葉の昔と現在とを比べれば、表記法を始め、文法や単語まで非常に変化してきたのだが、にもかかわらず、変らないものがある、それは何かというと、二音連結の伝統なのだ、と山崎はいうのである。

これは、二音ずつがひとかたまりになるという性質で、二音を二つ繰り返すと四音になる、それに一字足すと五音になる。たとえば、「あか」を二つ繰り返すと「あかあか」になり、それに「と」を足すと「あかあかと」となる。同じようにして二音を三つ繰り返すと六音になり、それにひとつ足すと七音になる。たとえば「ひがしのそらが」というのは、息遣いの上からいえば、「ひが・しの・そら・が」に分解でき、二音が三つと一音との組み合わせである。

この両者を足し合わせると、「あかあかと、ひがしのそらが」という形になり、それに別の五音たとえば「あけ・まし・た」を付け加えると、「あかあかと、ひがしのそらが、あけました」となる。

この例からもわかるように、日本語の語彙においては、二音連結からなる単語が非常に多いという伝統があり、その伝統の上に、七五調と云う、韻律の伝統が確立された、と山崎はいうのである。

七五調は、戦後の一時期、古臭いといって排斥されたが、そう簡単には滅びなかった。いまでも和歌や俳句の伝統は庶民の間に息づいているし、たとえば「この土手に上るべからず警視庁」といった、日常の警句の中にまで溶け込んでいる。といった具合で、二音連結と七五調は、日本語のうちでもっとも変わらぬ要素なのだ、というのである。

この言語上のリズム感覚が、なぜかくも強固に生き延びて来たのか、山崎は良くわからないという。もしかしたら、農耕民の二足歩行と関係があるかも知れないが、それも確かではない。ここでいう二足歩行とは、農民たちが農作業をする時に、右足と左足を交互に、二歩ずつ進めるということらしいが、それがなぜ二音連結のリズム感につながるのか、正確な説明はできないという。

すると相棒の丸谷が助け船を出して、大野晋のタミル語起源説が正しければ、謎が解けるという。タミル語のサンガムという歌はみな七五調で、その伝統が日本語の中にまぎれこんだのではないか、というのである。

しかしこの意見が正しいにしても、なぜタミル語のサンガムが七五調なのか、という謎はとけないままである。

そこで筆者などは、別の説明原理を持ち出したくなる。日本語は世界でももっともオノマトペの豊かな言語であるが、そのオノマトペ起源の言葉が、ほとんど二音連結の形を取るのである。

上述の「あかあか」もそうだが、日本語には、二音を二つ重ねてオノマトペとする言葉が非常に多い。「しらじら」、「ほのぼの」、「ゆらやら」といった言葉である。これらの言葉は、とりあえずは物やことがらの状態をあらわす最も原初的な言葉であるが、「あかあか」からは、「あか」という名詞、「あからむ」という動詞、「あかるい」という形容詞が生じるなどして、言語がそこから広がっていく語幹の働きをした。

同じようにして、「ゆらゆら」からは、「ゆらめく」や「ゆれる」と言った動詞、「やらめき」や「ゆれ」といった名詞、「ゆるぎない」といった形容詞が生まれた、という具合に、二音連結のオノマトペが語幹となってできている言葉が非常に多いのである。

そんなわけだから、二音連結と七五調とが日本語のリズム感の基本となっているという山崎正和の指摘は、自分なりに納得できる説なのであった。


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