母音の色(ランボーの詩に寄せて)
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フランスが生んだ天才詩人アルチュール・ランボーの詩に、「母音」と題するソネットがある。ひとつひとつの母音にそれぞれ色をつけてみて、音と色の織りなすイメージを言葉に表現したものである。短い作品なので、拙い日本語訳をお目にかけながら、そのイメージの程を読み解いてみよう。
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oはブルー
母音たちよ、何時の日か汝らの出生の秘密を語ろう
Aは黒いコルセット、悪臭に誘われて飛び回る
銀蝿が群がって毛むくじゃら そのさまは深淵の入江のようだ
Eは靄と天幕の爛漫さ、とがった氷の槍
白衣の王者、震えるオンベルの花
Iは緋色、吐いた血の色、怒り或は陶酔のうちに
改悛する人の美しい唇の笑み
Uは周期、碧の海の高貴な脈動
獣の休らう牧場の平和 錬金術師の
学究の額にきざまれた皴の平和
Oは至高のラッパ 甲高く奇しき響き
地上と天空を貫く沈黙
あの目の紫色の光 おお、オメガよ!
このように、ランボーは母国語にある5つの母音にそれぞれひとつづつ、計5つの色を選んで与えている。A(アー)には黒、E(ウー)には白、I(イー)には赤、U(ユー)には緑、O(オー)には青である。それぞれに、フランス人としての、ランボーの感性がこめられた比喩であるが、いまは、それを日本人の感性からとらえなおしてみたい。
Oに青は、日本人にも何となくわかるような気がする。Oは唇を丸くして発する音であり、穏やかな音感を与えるものである。その穏やかさがブルーに通ずるともいえる。ランボーは一方ではこの音に沈黙の穏やかさを結合させるとともに、金属楽器の耳を裂く賑やかさをも連想させて、この音を二層的なイメージのもとにとらえている。
Uに碧もまた、日本人には納得しやすい比喩だ。「ゆ」は日本語で湯に通じ、ゆったりとした音感から、海や牧場の緑のイメージにつながりやすいからである。しかし、フランス語のUに当たる日本語の「う」においては、緑のイメージは結びつきにくい。「う」はむしろ、ウコンの「ウ」に通じ、黄金を含みながらも、かつ地味な色合いを連想させる土の色に近いのではないか。
ところが、Aに黒となると、俄然日本人にはわかりにくくなる。日本語の「あ」は口を伸びやかに大きく開けて発する音であり、開放的な響きの音である。他の母音は、「あ」に比べて口を開放することそう大きくはなく、どちらかというと、くぐもったような音に聞こえる。そんなことから「あ」行は母音のなかでも特別な響きを持った音としてとらえられてきたのではないか。実際、「あか」「あきらか」など、開放的な語感の言葉は、「あ」を語頭にもつものに多いのである。
Eはフランス語では「うー」といい、日本語の{え}でもなければ、英語の「イー」でもないので、ここで比較するのは難しいかもしれない。フランス人のランボーがEを白に結びつけるのには、それなりの文化的な背景の蓄積があるのだろう。日本語の「え」の音についていえば、唇をあいまいに開きながらも、音そのものははっきりと人に伝わる。ここからして、ほのかな色合いの中にも、人に強く訴えかける紫の色合いに通じているのではないだろうか。
Iはフランス語で「イー」といい、日本語の「い」と同様唇を横に開いて発音するものである。その発音のさまから、ランボーは美しい唇の笑みを連想したのであろう。日本語においても、「い」は唇ときっと横に開き、響き渡るようにして発せられることが多い。色にたとえるならば、黄色がふさわしいといえる。
さて、この詩の最後の段に、「地上と天空を貫く沈黙」とあるのは、おそらく、パスカルの箴言を意識しての言葉だと思う。パスカルは、沈黙を取り上げながら、現世とあの世の断絶を語ったのであるが、ランボーはそこに生きた人間の女の青みがかった紫色の光を認め、「女よ!天空は汝の目の光のうちに宿れり」と叫んだのに違いない。
以上、ランボーの詩に寄せて、日本語の母音についても、色との間に生ずる隠喩のようなものを語ってきた。いまこれを、ソネットならぬ箴言のような形に現してみたいと思う。
あは、あかあかとあきらけき秋の色
いは、画然として人の目にたつ黄金の色
うは、ウコンの地に落ち着ける土の色
えは、ほのかに匂い心に染みる紫の色
おは、おだやかに空を染めなす青春の色
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