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曽根崎心中 生玉の社の場面 |
お初の観音めぐりは生玉の社で終わる。そこの茶屋で休んでいると、徳兵衛が丁稚を連れての得意先周りを終えて通りがかる。こうしてふたりの対話が始まり、その対話の中で徳兵衛の苦境が明らかにされる。この二人の、心中までに到る不幸とは、まず男のほうに理由があった。女はそんな男が恋しさに、自分も道沿いになって心中しようと決意するのだ。 徳兵衛の苦境とは二つあった。ひとつは主人との軋轢だ。主人である平野屋の九右衛門は徳兵衛にとっては叔父である。その叔父が徳兵衛を姪と添わせようとする。それに対して徳兵衛は愛する女お初のことを思い切れずに抵抗する。その抵抗に怒った叔父は、徳兵衛を大阪から追放するといって脅かす。こうして徳兵衛は叔父との間でのっぴきならぬ事態に陥っていたのだ。 二つ目は金の問題だ。この金は叔父が徳兵衛と姪との間の結納のもとでとして、徳兵衛の継母にやった金だった。それを徳兵衛は取り戻して叔父につき返そうと思っているが、ひょんなことから親友の九平次に貸してしまう。ところがこの九平次が悪党で、なかなか返そうとしない。 徳兵衛は叔父との間の義理と、金という難題にはさまれて、にっちもさっちも行かなくなっているのだ。 このようにこの劇は、始まったところですでに、悲劇の原因となる出来事が生じてしまっている。主人公たちはこの生じてしまった出来事、すなわち自分たちにとっての苦境を前にして、恐れおののき、やがては互いの愛を貫くために心中を決意するのだ。筋書きとしては、主人公たちの弱弱しさが目に付いて、やり切れぬものを感じさせる。 それはともかく、近松はそんなふたりの愛をつややかに描こうとしている。心中物という暗い題材だけに、舞台につやがなければ、観客はやるせないばかりだろう。 観音めぐりのあとで若い男女を登場させる場面は次のようである。 謡 「立迷ふ フシ「浮名を餘所に漏さじと、包む心の内本町。焦るる胸の平野屋に、春を重ねし雛男。一ツなる口桃の酒、柳の髪もとく/\と、 フシ「呼れて粹の名取川。今は手代と埋木の、生醤油の袖したたるき、戀の奴に荷はせて、得意を廻り生玉の、 オクリ「社にこそは著にけれ。 フシ「出茶屋の床より女の聲、ありや徳さまではないかいの。コレ徳樣々々と手をたたけば、徳兵衞合點して打ち 色「頷き、 詞「コレ長藏、おれは後から往のほどに、其方は寺町の久本寺樣、長久寺樣、上町から屋敷方廻つて而して内へ往や。徳兵衞も早戻ると言や。それ忘れずとも、安土町の紺屋へ寄て錢取やや。 地色「道頓堀へ寄やんなやと、影見ゆるまで見送り/\、簾を上て、 色「コレお初じやないか。是は如何じやと編笠を脱んとすれば、 色「先づ矢張被て居さんせ。 詞「今日は田舎の客で、三十三番の觀音樣を廻りまし、 地色「此處で晩まで日暮しに、酒にするじやと贅言て、物眞似聞にそれ其處へ。戻つて見ればむづかしい。駕籠も皆知んした衆。矢張笠を被て居さんせ。それは左樣じやが此頃は、梨も礫もうたんせぬ。氣遣ひなれど内方の、首尾を知らねば便宜もならず。丹波屋まではお百度ほど訪ぬれど、彼處へも音信も 色「ないとある。 詞「ハア誰やらがヲヽそれよ。座頭の太市が友達衆に聞けば、在所へ往んしたといへども、つんと誠にならず。 地色「ほんに又餘りな。妾は如何ならふとも聞たうもないかいの。此方樣それでも濟もぞいの。妾は病ひになるはいの。嘘なら是れ此痞を見さんせと、手を取て懷の、 スエテ「うち怨みたる口説泣。 フシ「ほんの夫婦にかはらじな。 ここには久しぶりにあった恋人たちの、喜びと恨みがつややかに描かれている。何せお初は十九、徳兵衛は二十四の若さなのだ。 徳兵衛が最近自分を訪れてこないのを責めるお初に、徳兵衛はその理由を説明する。叔父との軋轢である。 地色「男も泣いてオオ道理道理、 色「さりながら、 詞「いうて苦にさせ何せうぞいの 地色「此の中おれが憂き苦労、盆と正月その上に、十夜お払い煤箒を一度にするともかうは有るまい、心のうちはむしゃくしゃとやみらみっちゃの皮衣、銀事やら何じゃやら訳は京へも上って来る、ようもようも徳兵衛が命は続狂言に、したらば哀れにあらうぞと、 フシ「ため息ほっとつくばかり 地色「ハテ軽口の段かいのそれ程にない事をさへ私には何故いはんせぬ、隠さんしたは訳があろ何故打ち明けて下んせぬと、膝にもたれてさめざめと、 フシ「涙は、延を浸しけり 詞「ハアテ泣やんな、恨みやるな。隱すではなけれども、言ふても埓の明ぬ事。さりながら大概先づ濟よつたが、一部始終を聞てたも。おれが旦那は主ながら現在の叔父甥なれば、懇切にも預る、又身共も奉公にこれほども油斷せず。商ひ物ももじひらがな違へた事のあらばこそ。 地「此頃袷を仕樣と思ひ、堺筋で加賀一疋、旦那の名代でかひがかる。是が一期に只た 色「一度。 詞「此金もすはと言へば、著替賣ても損かけぬ、此正直を見て取て、内儀の姪に二貫目附て夫婦にし、商賣させうといふ談合。去年からの事なれど、 地色「そなたといふ人持て、何の心が移らうぞ。取りあへもせぬ其内に、在所の母は 色「繼母なるが、我に隱して親方と談合極め、二貫目の金を握て歸られしを、此うつそりが夢にも知らず。後の月からもやくり出し、押て祝言させうとある。其處で俺も 色「むっとして、 詞「やあら聞えぬ旦那殿、私合點がいたさぬを、老婆を賺したたきつけ、餘りな成されやう。お内儀樣も聞えませぬ。今迄、樣に樣を付け崇まへた娘御に、金を付て申受け、一生女房の機嫌取り、此徳兵衞が立ものか。嫌といふからは、死だ親父が蘇生り申すとあつても否で御座ると、詞を過す返答に、親方も立腹せられ、おれが夫れも知て居る。蜆川の天滿屋の初めとやらと腐り合ひ、嚊が姪を嫌ふよな。 地色「よい此の上はもう娘は遣らぬ。遣らぬからは金を立て。四月七日までに屹度立て。商ひの勘定せよ。まくり出して大阪の地はふませぬと怒らるる。それがしも男の我。ヲヽソレ畏つたと在所へ走る。又此母といふ人が、此世が彼の世へ歸つても、握た銀を放さばこそ。京の五條の醤油問屋、常々金の取遣すれば、これを頼みに上つて見ても、折りしも惡う銀もなし。引返して在所へ行き、一在所の詫言にて、母より金を請取たり。追付返し勘定仕舞ひ、さらりと埓が明くは明く。されども大阪に置れまい時には如何して逢れふぞ。假へば骨を碎かれて、身はしやれ貝の蜆川、底の水屑とならば成れ。汝が身に放れ如何せうと、 スエテ「咽び入てぞ泣居たる。 お初は徳兵衛の苦境を知らされて、たとえ大阪を追われても、罪人ではあるまいに、互いに逢引の機会はあるでしょうと慰めるが、無論そうなっては悲しいのだ。 ついで九平次に貸した金をめぐって、やりとりがある。予想はしていたが、九平次は破廉恥にも金を借りた覚えはないといって、徳兵衛を足蹴にするのだ。 色「これ九平次、 詞「アヽ不敵千萬な。身共方へ不届して遊山どころではあるまいぞ。サア 地「今日埓明ふと、手を取て引留れば、九平次興覺顏に 色「なつて、 詞「何んの事ぞ徳兵衞、此連衆は町の衆。上鹽町へ伊勢講にて只今歸るが、酒も少し飲で居る。利腕把て如何する事ぞ。麁相をするなと笠を取れば、イヤ此徳兵衞は麁相はせぬ。後の月の二十八日、銀子二貫目時貸に此三日切に貸たる銀、 地「それを返せといふ事と、言せも果てず九平次 色「かっら/\と笑ひ、 詞「氣が違ふたか徳兵衞。われと數年語れども、一錢借た覺えもなし。 地「聊爾な事を言懸け、後悔するな」 徳兵衛は九平次からとった証文を見せるが、九平次はそれを偽者だといって取り合わない。場合によってはかたりものとしてお上に突き出すぞと脅しにかかる。お初は連れの客に応援を求めるが、客は難儀をおそれて手を出さぬ。結局徳兵衛は自分がお人良さにだまされたということを思い知らされる。 地「やれ九平次め畜生め。おのれ生て置ふかと、よろぼび尋ね廻れども、逃て行衞も見えばこそ。其儘其處にどうと居り、 スエテ「大聲上て涙を流し、 詞「孰れもの手前も面目なし恥しし。全く此徳兵衞が言かけしたるで更になし。日頃兄弟同前に語りし奴が事といひ、一生の恩と歎きしゆゑ、明日七日此銀がなければ、我等も死ねばならぬ命がはりの銀なれども、互の事と役に立ち、 地色「手形を我等が手で書せ、印判捺て其判を、前方に落せしと町内へ披露して、却て今の逆ねだれ。口惜や無念やな。此如く踏叩かれ、男も立たず身もたたず。エヽ最前に掴付き、喰付てなりとも死なんものをと、大地を叩き切齒をなし、拳を握り歎きしは、道理とも笑止とも、 フシ「思ひやられて哀れなり。 地色「ハテ斯ういふても無益の事。此徳兵衞が正直の心の底の涼しさは、三日を過さず、大阪中へ申譯はして見せうと、後に知らるる詞の端、何れも御苦勞かけました。御免あれと一禮述べ、破れし編笠拾ひ着て、顏も傾く日影さへ、曇る涙に掻暮れ/\、悄然歸る有樣は、目もあてられぬ この場面は現代の観客の目には異様に見えるかもしれない。いくら徳兵衛がお人よしと入っても、実際に貸した金のことでここまでコケにされるのは尋常ではない。しかも九平次は徳兵衛の日ごろからの親友という設定になっている。その親友がにわかに化けてこんな仕打ちをするというのも、いかにも不自然だ。 だが近松にとっては劇の構成上必要なプロットだったといえよう。先にも言ったとおり、この劇は悲劇の原因となる出来事が劇の始まる前に生じてしまっている。その生じてしまったことが主人公たちに心中を迫るのだが、もし彼らが心中するまでの間に何も劇的な出来事がなければ、劇は気の抜けたものになってしまう恐れがある。だから近松は、悲劇を守り立てる劇的な要素としてこの場面をさしはさんだ、そうも受け取れる。 およそ劇というものは、終末を最大限に盛り上げるために、それに先立って異常な事件をさしはさむ必要があるものなのだ。観客はその異常な事件が事態を急迫させて、主人公たちが最後に陥る運命的な結末を感動的に受け止める。 こうした工夫は説経や古浄瑠璃でも採用されていたものだ。さんせう大夫では、安寿姫が地獄の責め苦をこうむって観客は思わず身震いするのを感じさせられるが、それは厨子王丸の復讐を盛り立てる劇的装置として有効に働いていた。 それと同じような働きを、近松はこの場面に期待したのではないか。 |
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