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冥途の飛脚二段目:封印切


冥途の飛脚二段目(中の巻)は、忠兵衛の身の破滅のもととなるできごとを描いた封印切の場面である。封印切とは、飛脚問屋として客から預かった大事な金の封印を、客に無断で切ってしまうこと、つまり横領の行為をさしていう言葉だ。信用がもとでの商売で、これほど重大な犯罪行為はない。この罪を犯した者は、死を以て償うしか道がないのだ。

この封印切には伏線がある。忠兵衛は梅川の身請け問題を巡って金の入用に迫られ、友人の八右衛門へ届けられた金を無断で使ってしまっていた。金の受け取りを催促しに来た八右衛門は、忠兵衛から事情を聞かされて、怒るどころか一時立て替える形で、受け渡しを延期してやった。それどころか、心配する養母の気持ちをなだめてやるために、忠兵衛がきちんと金を受け渡したと見せかける芝居に協力までしてやるのである。

この芝居を打つ場面がまた、見どころの一つになっている。忠兵衛は櫛箱から鬢水入れを取り出すと、それを紙に包んで金貨の包みのように見せかけ、養母の目の前で八右衛門に手渡す。それを八右衛門は何の疑問もない表情で受け取るのだ。

地色「ヤレ有難や此の櫛箱に焼物の鬢水入、これ氏神と三度頂き紙押広げるくるくると、駿河包みに手ばしこく金五十両墨黒に、似せも似せたり五十杯、母には一杯参らせし、
フシ「その悪知恵ぞ勿体なき
詞「これこれ八右衛門殿、今渡さいでもすむ金ながら、母の心を休める為、
地色「男を立てる其方と見て詮方なう渡す金、きっぱりと受け取って母の心を
色「休めてたも

忠兵衛の勝手放題ともいえる望みに、八右衛門はどこまでも調子を合わせ、養母の目の前で偽の受け取り証文まで書いてやる。

こうしてみれば、八右衛門は忠兵衛にとっては恩人であるべきはずを、忠兵衛はつまらぬ意地を張るために、八右衛門と梅川の目の前で、封印切という重大な罪を犯してしまうのだ。

その意地というのは、忠兵衛の八右衛門にたいする面当てという形をとっている。八右衛門は別に、忠兵衛に対して金の催促をしたわけでもないのに、忠兵衛は八右衛門の態度に自分への侮蔑を感じ取って、何が何でも負債を解消してやろうという激情に駆られる、この激情にそそのかされる形で、封印を切ってしまうのだ。

このやりとりが、封印切を名場面にしているのだが、この場面を演じる二人の役者、八右衛門と忠兵衛とが、何となく呼吸が合わぬ雰囲気を醸し出し、どうも割り切れない気持ちを観客に与える。

封印切が演じられるのは、梅川らの遊女が遊んでいた茶店である。そこへ八右衛門がやってきて、遊女たちを相手に茶のみ話をする。話の内容は忠兵衛のことだ。これまでのいきさつを明かしたうえで、もうこんな男とは係わりを持たぬほうがよいと、女らに話す。それを二階にしのびながら聞いていた梅川は、忠兵衛を案じて涙を流す。

そこへ忠兵衛もやってきて、八右衛門の話を立ち聞きし、大いに起こる、そこから一気に封印切へと邁進するのだ。

地「忠兵衛元来悪い虫押えかねてずんと出で、八右衛門が膝に
色「むんずと居かかり・・・
詞「措いてくれ気遣すな五十両や百両、友達に損かける忠兵衛ではごあらぬアア、八右衛門様八右衛門め、
地色「さア金渡す手形戻せと、金取り出し包みを解かんとする所を

ところが、八右衛門はここでも冷静にふるまう

色「やい忠兵衛
詞「よっぽどのたはけを尽くせ、その心を知ったる故異見をしても聞くまじと、郭の衆を頼んで此方から避けてもらうたらば、根性も取直し人間にもならうかと、男づくの念比だけ、五十両が惜しければ母御の前でいふわいやい、てんがうな手形を書き無筆の母御をなだめしが、是でも八右衛門が届かぬか

この言葉から、八右衛門はどこまでも友達の身の上を案じて言っているのがわかる。ところが忠兵衛のほうは、そんな忠告は耳に入らない、自分の不始末をなじられたことでのぼせ上り、当座の勢いで封印を切って、その金を八右衛門にぶつけるのだ。

この様子を見ていた梅川は、そもそもこの事態は自分のために忠兵衛が無理をして金の工面に走ったのが原因だと思えば、自分を思う忠兵衛の気持ちはありがたく感じられながらも、大それた行為の行く末を思うと胸のつぶれるほど心配になる

地「情なや忠兵衛様なぜそのやうに上らんす、そもや郭へ来る人のたとへ持丸長者でも金に詰まるは
フシ「有る習
色「ここの恥は恥ならず何を当てに人の金、封を切って蒔散し詮議にあうて牢櫃の、縄かかるのといふ恥と替へらるか、恥かくばかり梅川は何とされといふことぞ、とっくと心を落しつけ八様に詫び言し、金を束ねて其の主へ早う届けて下さんせ、わしを人手にやりともないそれは此の身も同じこと、身ひとつ捨てると思うたら、皆胸に込めてゐる、年とてもまあ二年下宮島へも身を仕切り、大阪の浜に立っても此方様一人は養うて、男に憂き目かけまいもの気を静めて下さんせ、浅ましい気にならんしたかうは誰がした、私がした、皆梅川が故なれば忝いやらいとしいやら、心を推して下さんせと、口説き立て口説き立て小判の上にはらはらと、
フシ「涙は井出のやまぶきに露置き、添ふるごとくなり

ここで梅川は、大阪の浜に立っても忠兵衛を養ってやる覚悟だから、なにとぞこの場の恥を忘れて、大それたことはしないでと、忠兵衛に哀願している。大阪の浜に立つとは、むしろ一枚持って男を引く女のことである。自分は幾多落ちぶれても、お前のためなら苦労とは思わない、だから命を大事にして自分と細々と生きてほしい、これはそんな切羽詰まった女の言葉なのだ。

だが忠兵衛は女の真心を受け止めない。忠兵衛の心は目先の恥のためにかたくなになっている。そんな忠兵衛を前に、梅川は絶望し、八右衛門はあきれ返る。

こうして大それた罪である封印切が行われる。忠兵衛に残されているのは、死ぬ定めだけである。忠兵衛はその定めを、自分が命を張ってまで愛した梅川とともに、受け入れたいと願う。

地「なぜに命が惜しいぞ二人死ぬれば本望、今とても易いこと分別据ゑて
色「下んせなう
詞「ヤレ命生きゃうと思うて此の大事が成るものか、生きらるるだけ添はるるだけ高は死ぬると覚悟しや、
地色「アアさうじゃ生きらるるだけ此の世で沿はう、・・・
色「木綿附鳥に別れ行く栄耀栄華も人の金、果ては砂場を打ちすぎて、後は野となれ山となれ、

二人は大和路を目指して逃げ延びてゆく。


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