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出世景清:近松門左衛門と新浄瑠璃


近松門左衛門が貞享2年(1685)に書き上げた浄瑠璃「出世景清」は、近松にとっても浄瑠璃の歴史にとっても画期的な作品となった。この作品は上演されるや月に月を重ねる大当たりとなり、それにともなって近松自身も浄瑠璃作者としての面目を施した。これに気をよくした近松は以後、貞享2年の「佐々木大鑑」を手始めに、自分の作品に署名するようになる。

それまでの浄瑠璃作者といえば、あくまで太夫の影に隠れた脇役、それが自分の名を表に出すようになったのは、日本の芸能作者としては画期的なことだったのである。

浄瑠璃の歴史の上でも、この作品は画期をなすものだ。この作品を境にして、浄瑠璃は古浄瑠璃といわれる伝統的なあり方から脱して、新浄瑠璃の時代を迎えるのである。

新浄瑠璃の成立に当たっては、竹本義太夫も大きな役割を果たしている。彼は義太夫節という新しい語り方を発明しただけではない、およそ語り物の世界を制していた従来の語りの伝統の中に、演劇的な要素を持ち込もうとしていた。近松のこの作品は、そうした義太夫の試みに応えるようにして、浄瑠璃に演劇的な要素を強く持ち込み、それまでとは趣を異にする新しい世界を築き上げたと、今日高い評価を受けている。

だが、この作品の新しい要素を強調する余りに、それが伝統との間にもっている連続性を軽視するのは妥当ではない。たしかに近松はこの作品に、伝統的な浄瑠璃には見られなかった新しい要素を付け加えようと努力はしているが、劇そのものの大枠は、浄瑠璃の伝統を強く踏まえている。

まず全体の構成を見ると、5段組からなっている。これは古浄瑠璃の中で確立されていた伝統的な枠組みだ。もともと説経の一分流として始まった浄瑠璃御前物語は12段形式をとっていたが、発展する過程で次第に5段形式に落ち着いていた。近松はその伝統的な形式をこの作品にも採用している。

それだけではない。各段の中にも近松は伝統との連続性を感じさせる工夫をふんだんに盛り込んでいる。

一段目は全体の導入部分として主人公悪七兵衛景清を紹介する場面だが、能「大仏供養」を最大限に引用している。大仏供養では、東大寺の大仏の開眼にあわせて、景清が平家の仇敵頼朝を襲わんとするさまが書かれているが、浄瑠璃「出世景清」も、同じテーマであることを、能を引用することで観客に示しているのである。

三段目では小野の姫が熱田神宮から京都六波羅まで、景清を追って登っていくシーンがあるが、これは説経以来古浄瑠璃でも常套化していた道行をそのまま採用したものである。また五段目では、景清が自分の目をくりぬいて盲目になるシーンがあるが、これは能の「景清」を踏まえている。それのみならず、大団円に近い場面で、能「景清」の詞章をそのまま援用してもいる。

こうした伝統的な歴史物とのつながりを云々する以前に、なぜ近松が、画期的となる作品に伝統的な浄瑠璃と同じようなテーマを選んだかが問題となるであろう。後になって世話物という新しいジャンルを浄瑠璃の世界に持ち込んだ近松だ、それまでのようなありきたりの材料ではなく、新しい材料を持ち込むことも考えられたはずだ。

それはやはり、近松といえども、観客の期待にこたえなければ、芸能の公演のうえで成功する見込みがないと踏んだからかもしれない。当時の芸能は、古い語り物の世界は無論、歌舞伎のような新しい形の芸能にあっても、題材は歴史上の古い出来事にとるというのが常套手段だった。観客がそれを強く求めていたのだ。その期待からはみ出ては、観客の支持が得られるかどうか、はなはだ心細い事情があったのだろう。

こうしたわけで、画期的な作品といわれるわりには、近松のこの作品は、伝統とのつながりを強く感じさせる。

それなのに、なぜ画期的だとまでいわれるのか。そのへんの事情は、これから作品を細かく読み取りながら考えていきたいと思う。
    

出世景清:能、舞曲との連続性

出世景清二段目:阿古屋の訴人

出世景清三段目:小野の姫の拷問

出世景清四段目:阿古屋の悲劇

出世景清五段目


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