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女が姦通に走るとき:堀川波鼓二


近松門左衛門の姦通劇「堀川波鼓」は三段構成になっている。一段目は女主人公のお種が息子の鼓の師匠源右衛門と姦通にはしる場面、二段目は亭主の彦九郎が江戸詰めから帰った喜びとはうらはらに、姦通の罪にさいなまれるお種の様子と、妹のお静を始め彼女を取り巻くひとびとの行動が描かれたあと、お種の死が、当然のことのように描かれる。そして三段目ではお種の姦通の相手源右衛門に対する彦九郎の女敵討ちが描かれる。

一段目は、この劇の最大の見せ場といってよい。なぜかといえば、姦通のような題材においては、犯した後の、罰を科される場面にはたいした問題はありえないのに対して、なぜ姦通に走ったかという、前段における、劇の必然性のようなものが、最大の関心事になりうるからだ。いわんや女敵討ちの場面などは、劇の進行の上では、内的な必然性など持ちえない。

お種はなぜ姦通に走ったか、この問いに対して近松はあまり明確な答えを用意していない。近松はお種が、自分の意思に基づいて源右衛門を誘惑したと描いておきながら、一方では亭主の彦九郎を深く愛していたと書いている。そこから自分で誘惑しておきながら、それは一時の気の迷いであって、本心からではなかったというような言い訳をしている。そこがこの劇を中途半端なものに印象付けていることは否めない。

お種の姦通の伏線として、床右衛門からの誘惑が描かれている。お種は床右衛門からの不意打ちをかわすために、後日ねんごろに身をまかすから、いまは我慢せよとなだめるところを、源右衛門に聞かれたと思い込む。この思い込みが姦通の導線になったというのである。

源右衛門との濡れ場では酒が雰囲気を演出する。お種は源右衛門と杯を酌み交わし、つけざしまでして誘惑しながら、お前と自分はもはや切れぬ仲だから、何事も沙汰するなよ、つまり他言は無用といい含めながら、相手を濡れ場に誘うのだ


地「錐は袋と外よりに、取沙汰は存ぜぬと振切り出づるを縋りとめ、さりとはむごい御詞御身様も若い殿、我も若い女の身実のかうしたこと聞いても、隠し隠すは世の情、此の分で往なせては、私心落ち着かず、いふまいとある固めの杯、取交はしてと銚子を取り、濃茶茶碗にちゃうとつぎ、つっと干して又引き受け、半分飲んでさしければ、こは珍しいつけざしと、
フシ「押戴いて飲んだりけり、お種は余程酔は来る、男の手をしかと取り、
詞「コレこな様とても主有る者のつけざしを、参るからには罪は同罪、
地「何事も沙汰することはなるまいぞと
色「詰めければ
詞「いやはやかかる迷惑と、飛んで出づるを抱きつき、エエあんまり恋知らず
地「さてもしんきな男やと、両手を回して男の帯、ほどけば解くる人心、酒と色とに気も乱れ、互いにしめつしめられつ、
フシ「思はず誠の恋となり、
地「サアこの上は今のこと、沙汰はならぬが合点か、オオ、オオ、余所かと思へばわが身の上、このことを隠さいでなんと障子を押し開けて、転寝枕かりそめの、縁の端また因果の端、うたたかりける契りなり


こうして源右衛門と縺れ合うお種に、罪の意識はない。かえって男の肌への執念のようなものさえ感じれらる。とにかくこの文面からは、消極的な男を煽って、互いに肉の喜びにふけりあおうとする、女の邪念が執拗に伝わってくるのだ。

これは女が意に染まぬ行為を迫られるというより、酒に勢いを借りて男をたぶらかそうとしているようにも見える。この場面のなかのお種は、男に飢えた色魔といってもよい。

この女の色情が、この劇をただの悲劇ではなく、複雑な姦通劇たらしめた要因なのだ、そう近松はいっているかのようである。


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