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あんまりじゃ治兵衛殿:心中天網島中段


心中天網島は中段にクライマックスが来る。下段はそのクライマックスを形式的に成就させるための、心中という儀式の場面だ。それは純粋に形式的なものだから、物語の展開はない。ただ美というものを人々に体験してもらうための儀式なのである。

だから中段は、短い時間の中で、人間のドラマが駆けるように進行していく。観客に息をつぐ暇を与えない、濃密な時間が、そこでは展開される。

中段では、治兵衛とおさんが小春という女を巡って、人間としてのぎりぎりの真実を確認し合う場面が展開される。当の小春は出てこない。彼女はおさんと治兵衛の心の中に出てくることを通じて、観客の前には亡霊のような形で現れるに過ぎない。だがその亡霊は、人を震え上がらせるほどの迫真力を帯びている。

舞台には治兵衛の兄の孫右衛門と叔母が現れ、小春を請け出す大尽がいるとの噂だが、お前ではないのかと、治兵衛に問いただす。治兵衛はとんでもないといって、もう二度と小春とはかかわり合わぬとの誓紙まで書く。ここで小春が、太兵衛に請け出されるということが明らかになる。

そのことが、治兵衛とおさんの双方にショックを与える。治兵衛にとっては、恋しい女を恋敵に奪われる悔しさとして、おさんにとっては、自分らのために身を引いてくれと頼んだ相手が、死を覚悟していることを知った驚きとして。

ここでこたつの中に潜ってすすり泣く夫の情けない有様に、おさんの感情が爆発する。

詞「あんまりじや治兵衞殿。夫程名殘惜くば誓紙書ぬがよいはいの。一昨年の十月中の亥の子に、火燵明た祝儀とて、まあ爰で枕竝べて此かた、女房の懷中には、鬼が住か蛇が住か、二年といふ物巣守にして、漸母樣伯父樣のお蔭で、睦しい女夫らしい寝物語もせふ物、と樂む間もなくほんに酷いつれない。左程心殘らば泣しやんせ/\。其涙が蜆川へ流れて小春の汲で呑やらふぞ。エヽ曲もない恨めしや」

自分がこれほどまでに夫を愛し、その夫を自分のもとにとりもどすために、小春に身を引かすようなことまでしてきたのに、その夫がまだ小春への未練を捨てきれないでいる。それも正面からそう認めればよいものを、夫は一方では小春を罵り誓紙まで書いている。それがおさんには、女々しく映るのだ。

だが小春は怒りに身を任す代わりに、女同士の義理に目覚める。小春が太兵衛に請け出されるというのは、死ぬ覚悟でいるということだ。それは女同士の付き合いを通じてピンとくることだ。

「是程の賢女が、こなさんとの契約違へおめ/\太兵衞に添ふものか。女子は我人一むきに、思ひ返しのないもの、死にやるはいの/\。」こうしておさんは、おめおめと小春を死なしては、自分の気持が済まぬと、と強く感じるようになる。そこで亭主の治兵衞に向かって、なにがなんでも小春の命を救ってくれというようになるのである。「アヽ悲しや。此人を殺しては、女どしの義理立ぬ。まづこなさん早ふ往てどふぞ殺して下さるな」

だがこれは実現のむつかしいことだ。小春の命を現在の境遇から救い出すということは、亭主を小春にくれてやることを意味する。だからおさんは、筋の通った気持ちでいるわけではない。小春との間に生じている当面の義理が、こうした行動をとらせているだけなのである。

小春を請け出すためには巨額の金が要る。その金をおさんは、自分や子供たちの着物を売ってまで用立てしようとする。大変な自己犠牲である。しかもその自己犠牲は、小春への義理立てによって成り立っているのだから、観客にとってはわからぬところも多い。

義理が人情に優先する事態は、近松の世界には珍しいことではないのだが、この場面における女同士の義理ほど、現代人にとって理解しがたいものはないだろう。

ここまで来ると、おさんと治兵衞の関係は、男女の関係としてはもう修復できなくなっているといってよい。重婚を倫理的に容認しない限りは、一人の男と二人の女の間に成立した三角関係は存続しえないからである。

そのことを社会的に確認するかのように、近松はここでおさんの父親を登場させ、おさんを無理やり治兵衞から引き離す。

そのとき治兵衞は突然おさんへの愛に目覚めたかのように、なにとぞこのまま夫婦として添えさせてくれと懇願する。

詞「今日の只今より何事も慈悲と思召し、おさんに添せて下されかし。譬ば治兵衞乞食非人の身と成、諸人の箸の余りにて身命は繁ぐ共、おさんは急度上にすへ、憂め見せず辛いめさせず、添ねばならぬ大恩有。其譯は月日も立、私の勤方身上持直し、お目に懸れば知るること。夫迄は目を塞いでおさんに添せて給はれ」

治兵衞がなぜこんなことを云ったのか。そのことを理解することは、この作品を理解するための最大のカギになるだろう。

ともあれ治兵衞は最後には小春のもとに帰り、ともに心中することによって、あの世で永遠に結ばれることを選択するのである。


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