日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




大沼保昭「慰安婦問題とは何だったのか」


大沼保昭は「アジア女性基金」に深くかかわり、慰安婦問題の解決に半生をかけて取り組んだ。もともと国際法学者の大沼がなぜここまで慰安婦問題にこだわったのか。本人の言うことによれば、かれは日本の戦争責任の問題に強い関心をもち、それが高じてさまざまの問題に実践的にかかわるようになり、とくに日本の戦争の犠牲になりひどい目にあった人々への援助を自分の使命にするようになった。かれがかかわった問題は、サハリン残留朝鮮人、朝鮮人原爆被害者また強制徴用の被害者など多岐にわたったが、その中で慰安婦問題をとくにとりあげて集中的に取り組んだのは、すべての問題を一気に解決するだけの余裕がなく、また、戦争責任の問題の中で慰安婦問題のもつ重みが特に大きいと考えたからだという。

慰安婦問題が世間の大きな注目を集めるようになったのは、1991年に一人の韓国人女性が「自分は日本軍の慰安婦だった」と名乗り出てからである。1990年代は、フェミニズムの動きが世界的に高まっていたこともあり、慰安婦問題は女性の尊厳をめぐる問題として俄然注目を浴び、また、日本政府は戦争責任に向き合わないとして批判の的となった。そうした風潮もあって、日本政府もなんらかの対応をせまられ、その結果、アジア女性基金を通じて、慰安婦への償いの事業を始めるに至った。基金ができたのは1995年だから、比較的短い時間で具体的な行動に結びついたわけである。それには、当時村山政権がこの問題に積極的だったという偶然も働いた。また自民党の政治家の中にも、原文兵衛や河野洋平のようにこの問題に理解のある人もいた。そういう人々の理解を得ながら、大久保自身アジア女性基金の創設と運営に深いかかわりをもったわけである。

アジア女性基金には、左右両方から激しい批判が浴びせられた。右のほうからは、慰安婦は単なる売春婦なのだから、保障や償いなどする必要はないという意見が強かったが、さすがにこれは、歴史的な事実を無視した一方的な主張であり、人間性という点からも異常なものであって、まともに相手にする気にはなれなかったという。たしかにそういうことを平然という者は、おそらく人間の尊厳についての意識に欠けており、ひいては人間的な感情が欠けているのだと思う。だからそうした右からの批判に対する大久保の受け止め方は常識的なものだと思う。

左からの批判で、大久保がもっとも気になったのは、慰安婦問題については日本国家に法的な責任を認めさせて、国家補償として償いをすべきだとする意見である。上野千鶴子はその意見を代表する論客で、基金批判を展開したのだったが、それに対して大久保はかなり感情的になっている。基金の当事者という立場上、そうした批判に敏感になるのはある意味当然のことだろう。そうした批判に対して、大久保は大久保なりの立場から反論をしている。

大久保としても、上野が言うような日本国家による法的な対応という選択を考えないではなかった。しかし諸般の事情を考慮すれば、実現性が極めて低いうえに、膨大な時間を要し、当の被害者である元慰安婦が生きている間に解決する見込みはほとんどない。だからアジア女性基金を作って、個々の慰安婦が生きている間に一定の償いをすることには、それなりの意義がある。決して無駄にはならない。というより、当時の社会情勢からすれば、考えられる限りもっとも現実的で有効な解決策だった、と大久保は主張するのである。

アジア女性基金は、半官半民の団体であって、政府と国民が共同して被害者への償いをすることを目的とした。償いのための原資は国民からの募金でまかない、事務経費や福祉事業に要する経費は政府の予算から当てられた。国民からは、かなりの規模の金額が集まり、一応基金の形をととのえることができた。大久保は募金に応じてくれた人々に感謝の気持ちを表明しているが、ひとり経済界からは全く協力を得られなかったといって、不満を表明している。経団連に代表される日本の経済界は、一文の金にもならないようなことには無関心であり、ましてや政治的に議論の多い基金にはかかわりあいたくなかったということだろう。そうした日本の経済界の体質は、日本の評判を毀損するものであって、きわめて近視眼的な態度なのだが、今に至るまで、かれらが歴史から何かを学んだという形跡はない。

基金は2007年に解散するまでの間、一定の成果をあげた。とはいえ満足できるものではなかったことは、大久保自身認めている。中国以下重要な国の被害者がまったく含まれていなかったし、また、日本としてもっともタフな相手である韓国からは有効な協力が得られなかった。挺対協など有力関係団体が執拗に反対したため、被害者が名乗り出るのが困難な状況があった。そのため、韓国人の被害者に対する償い事業は極めて限られた範囲にとどまっている。その理由の大半を大久保は、韓国側のかたくなな態度に求めているが、かならずしもそうばかりとも言えまい。

大久保がこの本を書いたのは2007年のことであり、アジア女性基金の活動はまだ余韻を残している状況だったので、その活動を正当に評価できるような状態ではなかった。にもかかわらず大久保は、この事業が成功だったのか失敗だったのか、執拗に問いかけている。大久保としては、自分自身がかかわったことでもあり、成功だったと言いたいようだ。その気持ちは、たしかにわからぬことではないが、被害者個人の気持ちは別として、大局的に見れば、成功だったといは言えそうもない。

この事業は、1991年における韓国人元慰安婦の問題提起に端を発して以来、主として日韓問題として取り扱われた。そのため、ほかの国における同様の被害者がもれなく救済の対象になることはなかった。中国に関して言えば、慰安婦問題が話題になることもなかった。一方韓国においては、日本政府による法的責任の明確化と謝罪を要求する意見が支配的となって、慰安婦が基金の償いを受け入れることをタブー視するような風潮が支配的になった。和解を目的とした事業が、かえって分断を拡大したしたわけである。

日韓の和解はいまだに実現していない。安倍政権以降は、両国の分断は一層深まるばかりだ。とくに、2015年に日韓間で合意されたあらたな慰安婦救済のプログラムが韓国によって一方的に破棄されたことは、日韓両国の分断の深さを物語っている。その分断は、歴史認識に関する両国の食い違いに根差しているのだが、その食い違いが是正されることは当分期待できそうもない。

アジア女性基金は、すくなくとも日韓関係においては、両国の相互理解を推進し、両国民の和解を期待させるものであったが、結果としては、両国の分断を防ぐことはできなかったし、ある意味それを煽った面も否定できない。不幸なことである。



HOME日本史覚書昭和史







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである