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大沼保昭「東京裁判から戦後責任の思想へ」


大沼保昭は「『歴史認識』とは何か」の中で、東京裁判やそれに集約される日本の戦争責任について語っていたが、「東京裁判から戦後責任の思想へ」と題したこの著作は、これらの問題について詳細に論じたものである。いくつかの小論文を集めたものなので、重複や繰り返しが多いが、一応大沼の問題意識が出揃った本である。

東京裁判の問題を含めた戦争責任の問題についての大沼のアプローチの特色は、大きく二つに集約される。一つは戦争責任を一部の戦争指導者の問題に限定するのではなく、日本人全体の問題としてとらえるべきだという視点である。その視点があるために、戦争責任の問題は、「戦争」責任というにとどまらず、「戦後」責任の問題にも発展していくわけだ。戦争責任の問題を戦後まで包摂したものとするのは、大沼を含めて戦争に直接かかわらなかった日本人の責任まで問題とすることを意味する。これは近頃の右翼政治家たちが唾棄すべき考え方だと言って反発するものだが、大沼がこの本所載の文章を書いた頃には、まだそういう問題意識を受け止める精神的雰囲気が日本にあったということだろう。

もう一つのアプローチは、日本の戦争責任の問題が、対米関係の面に矮小化され、アジア諸国に対して行った侵略行為がほとんど問題として取り上げられてこなかったことへの反省である。この視点から大沼は、先の大戦を「太平洋戦争」としてではなく、「大東亜戦争」あるいは「十五年戦争」と呼び変えることで、対アジアの視点を取り入れるべきだと主張している。

まず、一点目についてもうすこし詳しく触れよう。大沼は戦後知識人や共産党によって展開された戦争責任問題の大きな特徴は、一部の戦争指導者に責任のすべてをおしつけて、一般の日本人をその被害者だとするものだったと言う。そういう視点に対して大沼は大きく反発する。大沼が共産党に対して最も厳しい言い方をしているのだが、その理由は、共産党が戦争に対して全くの部外者・批判者を装いながら、責任は天皇を含めた一部の指導者が負うべきであって、国民はその被害者だったと言ったことだ。つまり共産党は、日本の外側から第三者のような目で戦争責任を見ているが、実はその共産党を含めて戦争責任は、日本人全体がかかわりがあるという見方をする。戦争は一部の指導者の専断で行われたわけではない。そこには国民の熱狂的な支持があった、いや、そういう国民の支持が指導者を駆り立てて戦争への道を突進させたというのが大沼の見方のようである。

大沼は、戦後知識人の中では吉本隆明を高く評価するのだが、その理由は吉本が戦争責任の問題を一部の指導者に限定するのではなく、共産党を含めた広範な人々にも拡大することにある。吉本自身は、敗戦時に徴兵適齢期を迎えた世代だが、その世代も含めて多くの若者が戦争に駆り立てられた。それはなにも一部の戦争指導者の意思にもとづいたものだはなく、日本社会全体の圧力によるものだった。だから当時の日本社会、とりわけ大人たちが全体として責任を負うべきだということになる。その大人たちに共産党も含まれているわけだが、吉本は共産党を含めた大人たちによって戦場に駆り立てられたということになる。もっとも吉本自身は巧妙に兵役を逃れ、戦後まで生き残った。そうしたことが負い目となってるのかもしれないが、吉本の大人たちにむける怨念はきわめて異様なものがある。

吉本はだから日本人連帯責任論を展開したと言えなくもないが、それは敗戦直後に東久邇宮が強弁した「一億総懺悔」とは違うと大久保は言っている、一億総懺悔は、責任の所在を拡散することで、戦争指導者の責任をないものにしようとする極めて悪質な企みだった。それに対して吉本の議論は、戦争指導者の責任を棚上げにするものではない。ただ戦争責任を指導者に限定して、そのほかの日本人を免責しようとすることが許せないのである。

第二の対アジア認識の問題。これは戦争責任を対米関係の側面だけでとりあげ、アジアへの考慮がほとんど働いていない事態をいうが、こうした事態が生じた最大の原因は、敗戦直後に日本人の大部分をとらえていた被害感情にあったとする。それには無理もない面もある。なにしろ300万人以上の日本人が戦争で殺され、戦争が終わっても生活はめちゃくちゃに壊されたままだ。そんなふうになったのは、東条はじめ無能な指導者の責任であって、一般の日本人はその犠牲になったにすぎない。戦争の犠牲者という点では、日本が侵略した国の人間と、侵略国たる日本の一般国民との間に相違はない。だからことさら対アジア責任を云々する気にはなれない、というのが多くの日本人の本音だったわけである。

これとは別に、日本人の間に長い間培われてきたアジア蔑視の感情も大きく働いたと大沼は言う。福沢諭吉が脱亜入欧を説いて以来、日本人の間では、自分を名誉白人として考えたがる一方で、アジアの隣人を劣った人間として軽蔑する癖がついた。だから日本がアジア諸国に対して行った侵略行為は、すぐれたものが劣ったものに対して指導をしたのであって、感謝されるべきではあっても、非難されるいわれはない。そういう心情が日本人の間に根強くはびこっていて、それがアジア諸国に対してまともに向き合ってこなかった最大の理由であると大沼は言っている。

日本はたしかに、アジア諸国に対して、償いの意味をこめて経済援助を行ったが、それは日本にとっても有利なものだった。日本はアジアへの経済援助を通じて、アジア諸国の経済を日本の経済圏に組み入れることができたのである。かつて軍事力を通じて対アジア進出を行ったことにかわって、いまは経済力を通じて対アジア進出を行っている。やり方は多少違っても、アジアを日本の勢力下に置こうとする点では、何も変わっていないと大沼は言うのである。

なお、この本の中で大沼がもっとも高く評価しているのは大熊信行である。大熊は戦時中に日本の戦争に協力する活動を行ったのだが、敗戦後それを深く悔い、なぜそのような馬鹿なことをしたのか、徹底的に考えたという。その結果大熊がたどり着いたのは、国家の命令に対する不服従という思想だった。国家への不服従という思想が有効な働きをしていたなら、あんなメチャクチャな戦争に国民が熱中するはずはなかった、という反省がこれには含まれている。

そう考えたうえで大熊は、国家への不服従を合理化するためには、国家を超える価値の主体を示さねばならないと考えた。大熊はそういう超国家的な価値の主体として家族とか民族というものをあげたのだったが、かならずしもそれの説明に成功したとはいえないと大沼は批判する。かといって大沼自身、そうした国家を超える価値の主体を示せるわけでもないのだが。



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